サミュエル・ヒューストン
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サミュエル・ヒューストン
Samuel Houston


テキサス州
第7代 知事
任期1859年12月21日[1]1861年3月18日
副知事エドワード・クラーク
アメリカ合衆国
テキサス州選出上院議員
任期1846年2月21日1859年3月4日
テキサス共和国
第3代 大統領
任期1841年12月13日1844年12月9日
テキサス共和国
初代 大統領
任期1836年10月22日1838年12月10日
テネシー州
第8代 知事
任期1827年10月1日1829年4月16日
副知事ウィリアム・ホール

出生 (1793-03-02) 1793年3月2日
アメリカ合衆国バージニア州ロックブリッジ郡
死去 (1863-07-26) 1863年7月26日(70歳没)
アメリカ連合国テキサス州ハンツビル
政党民主党
配偶者エリザ・アレン
署名

サミュエル・"サム"・ヒューストン(英語: Samuel "Sam" Houston, 1793年3月2日 - 1863年7月26日)は、19世紀のアメリカ合衆国の軍人、政治家。アメリカ史上唯一、テネシー州テキサス州という二つの異なった州で知事を務めた人物である。
概要

バージニア州シェナンドー谷のティンバー・リッジで生まれ、スコットランド=アイルランド系アメリカ人(英語版)の出であった。テキサスの歴史における重要人物であり、初代および第3代テキサス共和国大統領を務め、テキサスが合衆国に加わった後は州選出上院議員、最後はテキサス州知事を務めた。テキサス州が合衆国を脱退すると、連合国への忠誠を拒否して知事を辞職した[2]。流血を避けるため彼はユニオン軍による南部同盟の反乱鎮圧の申し出を拒否した。代わりに南北戦争の終わりまでハンツビルに退き、そこで死去した。

その前半生には、バージニアからテネシーへの転居、チェロキー・ネイションでの時間(後に彼は国民として認められ、妻を娶った)、米英戦争での兵役、テネシー政界での成功が含まれる。

1827年、ヒューストンはジャクソン流民主主義者としてテネシー州知事に選出された[3]。1829年に知事を辞職、アーカンソー準州に転居する[4]。その後まもなくテキサスに移り住み、続いてメキシコの州に移動、テキサス革命の指導者となった[5]。彼はアメリカ合衆国のテキサス併合を支援した[6]。1832年には連邦下院議員との口論に関与し、裁判で注目を浴びた[7]テキサス州ヒューストンは彼の功績に因んで命名された。ヒューストンの名声はその死後に高まり、その功績をたたえて記念博物館、陸軍基地、国有林、歴史公園、大学、そしてアメリカ人として最大の立像などが作られた[8]
生い立ちおよび家族バージニア州ロックブリッジ郡の生誕地を示す碑

サミュエル・ヒューストン少佐とエリザベス・パクストン夫妻の息子として生まれた。ヒューストンの祖先は、17世紀後半にスコットランドで家督を築き上げた高祖父のジョン・ヒューストン卿までたどることができる。ヒューストン卿の2番目の息子、ジョン・ヒューストンはイギリスプランテーション時代にアイルランドアルスターに移住した。長子相続制の下では地所を引き継ぐことができなかった。アイルランドで数年を過ごした後、ジョンは1735年に家族と共に北アメリカの植民地に移住、ペンシルベニアに入植した。ルター派ドイツ系移民が増え、ジョンは一家と他のスコットランド=アイルランド系移民と共に移住を決め、バージニア州シェナンドー谷へ移り住んだ[9]

シェナンドー谷には多くのスコットランド=アイルランド系移民の農場が所在した。新参者の中にはラルー・エリアのライル家も含まれ、ティンバー・リッジで長老派教会を設立するのに尽力した。ヒューストンの一家はその近くに住み着いた。ジョンは徐々に土地を開拓し、奴隷を購入した[9] 。息子のロバートがその土地を引き継いだ。5人の息子の末子がサミュエル・ヒューストンであった。~ サム・ヒューストン ~1963年発行の記念切手

サミュエル・ヒューストンはモーガンライフル旅団に入隊し、アメリカ独立戦争の間に少佐に任命された。当時は民兵の士官が自身の費用を支払うこととなっていた。彼はエリザベス・パクストンと結婚し父親の農園を引き継いだが、管理の才能に欠け軍役の為に借金をすることとなった[9]。夫妻の子供はティンバー・リッジ教会近くの農園で生まれ、サムは1793年3月2日に生まれた。サムは9人いた子供の5番目であり、5番目の息子であった。

負債を解消するために転居を計画し、サミュエル・ヒューストンはテネシー州東部の親類の近く、ブラウント郡の郡庁所在地であるメアリービルへの転居を決めた。彼は1807年に死去し、その死は家族との転居が完了する前であった。エリザベスは5人の息子と3人の娘を連れて新居に移り住んだ[9]。家族がメアリービルに転居したときサムは14歳で、辺境において基礎的な教育を受けただけであった[10]。1809年、16歳のサムは兄の店で店員として働くことに不満を持ち家出した。

彼は南西部に向かい、ハイワシー川のハイワシー島に住む、アフルデギ率いるチェロキー族に加わり数年を過ごした。アフルデギは後にジョン・ジョリー(英語版)として知られた。ジョン・ジョリーはヒューストンの養父となり、彼にチェロキーの名「Colonneh」を与えた。その意味は「渡りガラス」であった[11]。ヒューストンは流暢なチェロキーの言葉を学び、その一方数ヶ月おきにメアリービルの家族を訪問した。1812年、19歳の時にメアリービルの家族の元に帰り、メアリービルとノックスビルの間に教室が一つの学校を設立した[9]。これはテネシーで初めて設立された小学校であった。
米英戦争


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