サマセット公
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サマセット公爵(第4期)
Duke of Somerset

紋章記述Arms:Quarterly: 1st and 4th, Or on a Pile Gules between six Fleurs-de-lis Azure three Lions of England (being the Coat of Augmentation granted by King Henry VIII on his marriage with Lady Jane Seymour); 2nd and 3rd, Gules two Wings joined in lure the tips downwards Or (Seymour) Crest:Out of a Ducal Coronet Or a Phoenix of the last issuing from flames proper Supporters:Dexter: an Unicorn Argent armed maned and tufted Or gorged with a Ducal Coronet per pale Azure and Gold to which is affixed a Chain of the last; Sinister: a Bull Azure ducally gorged chained hoofed and armed Or
創設時期1547年2月15日
創設者エドワード6世
チャールズ2世(1660年再授与)
貴族イングランド貴族
初代初代公エドワード・シーモア
現所有者19代公ジョン・シーモア(英語版)
相続人シーモア男爵セバスチャン・シーモア
付随称号シーモア男爵
(ベリー・ポメロイの)準男爵
現況存続
邸宅ブラッドレー・ハウス(英語版)
ベリー・ポメロイ城(英語版)
旧邸宅バルストロード・パーク(英語版)
モットー義務による信頼
(Foy Pour Devoir)

サマセット公(: Duke of Somerset)は、イングランド貴族公爵位。爵位名はサマセットに由来する。

過去に四回創設されており、現存する第4期のサマセット公爵位は1547年エドワード・シーモアが叙位されたことに始まる。彼は大逆罪で処刑されたため、1世紀以上にわたって爵位が失われたが、曽孫ウィリアム・シーモアの代の1660年に爵位が復活し、以降2016年現在まで続いている。
サマセット公の歴史
皇后マティルダによる創設

ウィリアム・ドゥ・モーン・オブ・ダンスターは、神聖ローマ皇后マティルダヘンリー1世の娘)のお気に入りで、彼女が国王スティーヴンと王位を争った時にもウィリアムはマティルダを支援していた[1][2]。彼はその功績によって1141年にサマセット伯に叙せられた[1][2]。もっともこの称号は、スティーヴンにもヘンリー2世(マティルダの息子)にも承認されなかったため、ウィリアムの子孫はこの称号を使わなかった[1]
ボーフォート家初代伯ジョン・ボーフォートサマセット公爵ボーフォート家紋章

ジョン・ボーフォート(1371年ごろ - 1410年)は、ジョン・オブ・ゴーントキャサリン・スウィンフォードの息子である[3]。彼は1397年2月10日にサマセット伯爵及びサマセット侯爵に叙せられた[註釈 1][3][4][5]。死後、爵位は長男ヘンリー(1401年 - 1418年)が継承するが夭折してしまったため、次男ジョン(1404年 - 1444年)が継承する[6]1443年8月28日にジョンはサマセット公爵及びケンダル伯爵に叙せられる[7]。しかし翌1444年に急死(自殺説もあり)、公位もケンダル伯位も消滅してしまう[4][7]

サマセット伯爵位は急死したジョンの弟エドマンド(1406年 - 1455年)が継承した。エドマンドは既に1442年にはドーセット伯爵に、1443年にはドーセット侯爵に叙せられていたが、新たにサマセットの所領も継承し、1448年3月31日にサマセット公爵に叙せられている[8][9][10]。エドマンドがサマセット公の時にヨーク公リチャードがランカスター朝の国王ヘンリー6世に反旗を翻し、国内を二分する薔薇戦争が勃発する[11][12]。エドマンドはヘンリー6世の側近かつヨーク公の政敵であることから当然ランカスター派に与したが、1455年第一次セント・オールバンズの戦いで戦死した[13]

爵位は息子ヘンリー(1436年 - 1464年)が継承する[14]。ヘンリーは1461年3月のタウトンの戦いの敗戦でスコットランドに逃走し、1461年11月4日ヨーク朝エドワード4世から反逆罪を理由に私権剥奪され、爵位も所領も没収される[14]1463年3月にスコットランドから戻ったヘンリーは、エドワード4世と和解して爵位・所領共に返還されているが、間もなく再びランカスター派に復帰し、1464年5月のヘクサムの戦いで捕らえられ、処刑された[14][15]。ヘンリーにはチャールズ・サマセットという子供がいたが、ヘンリー自身未婚だったため嫡子として認められず、サマセット伯を継がせることはできなかった[註釈 2][14]

議会はヨーク朝に反逆したサマセット公の爵位消滅を議会法によって宣言したが、ランカスター派ではヘンリーの弟エドマンド(1439年ごろ - 1471年)を第4代サマセット公とした[10][16]。彼は1471年テュークスベリーの戦いで敗退し、そこで処刑された。彼の死によってボーフォート家の家系は途絶えてしまった[16][17]
ボーフォート家以降


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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