サパルムラト・ニヤゾフ
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「ニヤゾフ」はこの項目へ転送されています。その他の用法については「ニヤゾフ (曖昧さ回避)」をご覧ください。

サパルムラト・アタイェヴィッチ・ニヤゾフ
Saparmyrat Atayewic Nyyazow


トルクメニスタン
初代 大統領
任期1991年12月16日2006年12月21日
トルクメン・ソビエト社会主義共和国
初代 大統領
任期1990年10月17日1991年12月16日

出生 (1940-02-19) 1940年2月19日
ソビエト連邦
トルクメン・ソビエト社会主義共和国アシガバート・キプチャク(ロシア語版、英語版)
死去 (2006-12-21) 2006年12月21日(66歳没)
トルクメニスタン
アシガバート
政党トルクメニスタン民主党
配偶者ムザ・アレクセーエヴナ(ロシア語版、英語版)

サパルムラト・アタイェヴィッチ・ニヤゾフ(トルクメン語: Saparmyrat Atayewic Nyyazow、ロシア語: Сапармурат Атаевич Ниязов、1940年2月19日 - 2006年12月21日)は、トルクメニスタン政治家。トルクメニスタン初代大統領トルクメニスタン民主党(DPT)議長独裁者でもあった。

1993年からは「トルクメン人の長」を意味する「テュルクメンバシュ(Turkmenba?y)」と名乗り、国内ではサパルムラト・テュルクメンバシュ(Saparmyrat Turkmenba?y)と称される。

トルクメニスタンの独立・近代化を行ったが、極端な個人崇拝に基づいた独裁的な政治によって世界で最も権威主義的で抑圧する独裁者として国外で非難された[1]

トルクメニスタンで最高額の500マナト紙幣にニヤゾフの肖像が使用されている。
生涯
生い立ち

アシガバートのキプチャク村(ロシア語版、英語版)で生まれたニヤゾフは、非常に早い時期に孤児となっている。のアタムラト・ニヤゾフ(ロシア語版、英語版)(トルクメニスタン人民英雄(ロシア語版、英語版))は第二次世界大戦分隊長として出征し、ドイツ国防軍と戦って1942年戦死した。残りの家族・のグルバンソルタン・エジェ(ロシア語版、英語版)(トルクメニスタン人民英雄)と2人のは1948年の地震で死亡した。ニヤゾフはその後ソビエト連邦孤児院で育てられ、次に遠くの親戚に預けられた。

孤児となったニヤゾフは優秀な成績で学校を卒業し、1959年、地質探査従事者労働組合トルクメン地域委員会で教官として働く。1962年から共産党員となり、その後レニングラード工業大学に入学し1967年に卒業した。大学卒業後、ニヤゾフはビュズメイ水力発電所で電気技術者として働いた。

ニヤゾフは1970年から1980年までトルクメン共産党中央委員を務め、1976年通信教育ソ連共産党中央委員会附属高等党学校を卒業、1980年にアシガバート市委員会第一書記となった。1984年モスクワミハイル・ゴルバチョフに見いだされて、1985年3月にトルクメン・ソビエト社会主義共和国首相、同12月トルクメン共産党第一書記と超特急の出世をした。ニヤゾフはゴルバチョフの綱紀粛正・反民族主義の方針に合い、1984年から1985年までソ連共産党中央委員会の党組織業務教官を務めた。

1985年ムハメットナザル・ガプロフの後任として、トルクメン共産党(ロシア語版、英語版)第一書記に就任して以来、2つの国の政界のトップとして活動した。1989年?1991年まで、ソ連人民代議員を務める。ペレストロイカ路線に忠実で、一定の民主化も行った。1990年1月13日、トルクメン共和国最高会議議長となり、ニヤゾフの指導の下で議会で独立主権宣言が採択され、10月17日国民投票によりトルクメン共和国大統領に選出された。10月27日、国民投票の結果トルクメニスタンは独立国家と宣言された。独立後は豊富な天然ガス資源で豊かな国を作ることを目標にし、電気ガス水道を無料にするなどの人気取り政策も行っていた。

ちなみに、ニヤゾフをトルクメン共産党・第一書記に任命したのはゴルバチョフソ連共産党書記長で、日本テレビスペシャル番組緊急!ビートたけしの独裁国家で何が悪い!』では「トルクメニスタンとサパルムラト・ニヤゾフ大統領の生みの親」と紹介された。また、この番組において、トルクメニスタンでの政策に対してのゴルバチョフの意見や提案をニヤゾフ自身が「自分の国は自分で作る」と言い放つ形で断っていたことが明らかにされた。

ニヤゾフはトルクメン語がほとんど話せず、議会での答弁や演説以外ではロシア語を話していた。
テュルクメンバシュ

ソビエト連邦の崩壊憲法採択と関連して1992年6月21日、ニヤゾフはトルクメニスタンの大統領に選出された。1993年、議会(メジリス)によりテュルクメンバシュ(国父)の称号を授与された。独立後は個人崇拝色を強め、権威主義的な超独裁体制を敷き、人民会議により1999年12月には終身大統領と宣言され、旧ソ連初の終身大統領となった。メディアでも学校でも「祖国を、サバルムラト・テュルクメンバシュを、祖国の神聖な旗を裏切った時には、私の息は絶えるがよい」という誓いの詩が毎日唱えられた。2001年にはニヤゾフ著『ルーフナーマ(魂の書)』が発表され、「聖なる書」として扱われた。また、ニヤゾフは自らを預言者になぞらえていたが、イスラームの教えと矛盾するため国外のムスリムから批判された。

野党への弾圧言論の自由を規制する(プロテスタント宣教師を弾圧、オペラバレエなど西洋芸術を否定するなど)といった、ニヤゾフの独裁的な政治は欧米諸国からの批判を多く受けた。2003年からは最高機関である国民評議会(ハルク・マスラハトイ)議長。

カスピ海沿岸の天然ガスを利用して資源大国化を目論み、主に輸出の5割を超す中華人民共和国とのパイプライン建設などを進めてトルクメニスタンの経済発展を成功させた。


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