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サバニ(鱶舟)は、南西諸島で古くから使われていた漁船の名称である。数人と荷物を乗せられるサイズが多く、帆漕レースの出場ルールでは長さ4.5メートルから9メートル、幅1.5メートル以内と定めている[1]。推進方法は「エーク」「ウェーク」と呼ばれる櫂、四角い帆(フー)、エンジンの3種類で、近年はエンジン推進が主流である。独特な形状をもつエークは漕ぐだけでなく、帆走時には舵としても使われる。戦後のエンジンの普及で、伝統的なサバニの帆漕技術は急激に失われつつある。
写真は、サバニにマストを立て、帆(フー)をかけた状態。下から7本のバテン(帆桟=フーザン)が見える。左後方に伸びているのは手綱(ティエンナ)で、これで帆を制御する。
かつて糸満漁民が古くから使用し、沖縄諸島、先島諸島や奄美群島まで遠洋漁業の出稼ぎをしていた事が知られている。 琉球ではかつて丸木舟が造られていた。高良倉吉(琉球大学名誉教授)によると、森林保護のため琉球王国が木板を張り(はぎ)合わせた「ハギ舟」を奨励したことから、サバニが発達した。糸満市では鮫(鱶)を指す「サバ」と、舟を意味する「ンニ」が合わさって「サバニ」と呼ばれるようになったと伝承される。フカヒレ採取のため鮫を追い回せ、暗礁や珊瑚礁がある浅い海域にも入り込めるよう、小回りが効いて速い舟に改良されていった。船底は厚く、舷側は薄く造られていたサバニは、網にかかった魚の引き揚げに便利で、動揺・転覆時の復原性も高かった。第二次世界大戦前は、日本統治下のサイパン島などに沖縄県のサバニ大工が渡り、「南洋サバニ」を広めた時期もあった[2]。また、漁意外にも、日常の荷物運搬等に欠かせない生活の足でもあった。 日露戦争の際、バルチック艦隊発見の知らせを伝えるために5人の漁師が宮古島から石垣島まで漕破たとされる久松五勇士のエピソードでも、漁師たちが漕いだのはサバニであった。 サバニの船形や造船技術に関する考察は白石勝彦 また荒天の際に船を半沈させて嵐をやり過ごし、その後再び船を起こして内部の水をかき出すといった使用法を考慮した構造を持つ。船底は礁湖内の航行も考慮した平坦な形状である。エークには、海水の比重に適合し、かつ適度な強度を併せ持つモッコクが使われる。 沖縄島に近接する慶良間列島ではかつて双胴船が存在したという記録があるが、一般的には単胴船であり、かつアウトリガーを持たない。ただ、臨時に複数のサバニをつなぎ合わせて重量物を輸送するといった使い方は珍しくなかったとされている(出口晶子『丸木舟』)。 帆桟(フーザン)と呼ばれる帆の形状を調節するバテンをもつ。マストの位置も微調整が効く構造となっている。 木造サバニの場合、船体の耐食性を高めるためにサメの肝油を船体に塗ることもあったとされる。また帆を豚の血液で染めることで布地の通気性を抑え、風を受け止める能力を高めていた。 サバニは糸満漁民の奄美大島近海での操業によって、奄美大島にも伝わった。奄美大島ではサバニの漁船としての優れた船形と,従来の木造船「イタツケ 現代のサバニは繊維強化プラスチック(FRP)の船体にエンジン装備という仕様が主流である。木造サバニや帆走サバニはほとんど残っていない。 琉球政府による復興や本土復帰後の現代は、サバニで各島弧に出かけた糸満漁民や、日露戦争時に久松五勇士が宮古島から石垣島に漕ぎ渡った話が伝わる以外は、人々の意識の中にも、伝統的なサバニが手漕ぎで島から島へと外洋を渡ることの出来る船であるというの認識が薄れていたが、1995年に喜納昌吉によって提唱され、実行された「黒潮祈りの巡礼 サバニ・ピース・コネクション
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