紀元前800年頃 - 275年 →
230年頃の勢力図。アラビア半島の黄土色がサバア王国。
サバア王国(サバアおうこく、アラビア語: ???、Saba')は、かつてアラビア半島南部に存在した国家。首都はシルワーフ(英語版)(シルワ)、マアリブ。南アラビアの碑文史料に初めて現れた国家である[1]。 サバア王国の成立時期は紀元前8世紀末に遡ると考えられている[2]。王国の時代区分は紀元前750年頃から紀元前500年頃のムカッリブ時代と紀元前500年頃から紀元前115年までのマリク時代に大別される[3]。7代目の王スムフ・アリまでは「僧王」を意味する「ムカッリブ(Mukarrib)」あるいは「マクルーブ(Makr?b)」、8代目の君主カリバイル・ワタル以降は「王」を意味する「マリク(Malik)」が君主号として用いられていた[3]。 サバアの呼称は紀元前8世紀に初めて登場する。まず、紀元前8世紀半ばにユーフラテス川中流のスフの王がタイマーとサバアの隊商を襲撃したという記録を残す。ついでアッシリア王ティグラト・ピレセル3世の年代記の服属貢納した諸族のリストのなかでサバアの名が挙げられている[4]。 アッシリア王サルゴン2世の年代記では、紀元前716年/5年に同王が行った遠征に際して、サバア人イタァアマルから貢物を受け取ったという記述がある。また、センナケリブ治世の紀元前685年には、アッシュール市の新年祭神殿建立記念碑文のなかでサバア王カリビルが宝飾品と香料を献上した旨が記されている。これらの記録が南アラビアに王国が存在していたことを証明する最古の史料となっている[5][4]。2005年にシールワーフで発見された石碑から、サルゴン2世に貢納した王はイサァマアル・ワタル シールワーフの石碑によれば、サバア王国の覇権は紀元前8世紀から紀元前7世紀にかけて、イサァマアル・ワタルとカリバイル・ワタルの二人によって確立されたと考えられる。 イサァマアル・ワタルはアウサーン王国
歴史
初期
前期
紀元前1千年紀前半のサバア王国はサバア人の居住地域を越えて多くの民族を支配し、その性質を連邦や帝国に擬する研究者も存在する[1]。アラビア半島対岸のエリトリア、エチオピア北部にはサバアとの強い関係を示す遺跡、碑文が存在し、サバアと同じ建築様式、文字、神殿の主神が確認されている[10]。こうした発見から紀元前1千年紀前半にサバア王国から東アフリカへの大規模な移住が行われたと推測され、また紀元前5世紀から紀元前4世紀にかけて東アフリカに存在した国家の君主は現地民であるダァマトと移民のサバアを統治するムカッリブを称していた[10]。 紀元前6世紀になると商業国家マイーン王国
後期
マリク時代に入り、シルワーフの東方に位置するマアリブに首都が移る[12]。当時サバア王国は東アフリカ、東アラビア、メソポタミア、インド洋世界との海上交易で利益を上げ、主要な商品として香料が扱われていた[1]。