サハラ交易
[Wikipedia|▼Menu]
1853年のキャラバントンブクトゥ

サハラ交易(サハラこうえき、: trans-Saharan trade)は、地中海沿岸と西アフリカのあいだの交易を指す。先史時代から存在したが、最盛期は8世紀から16世紀後期にわたる。日本語表記ではサハラ縦断交易(サハラじゅうだんこうえき)[1]、トランスサハラ交易[2]もある。

砂金の交易でキャラバンが往来し、合わせて奴隷コーラの実なども高価な商品として運ばれ、交易路周辺の国家は繁栄した。19世紀以降のヨーロッパによるアフリカの植民地化や、20世紀以降の独立による国境線の確定によって交易が減り、民族の対立や地域の政情不安が起きている。21世紀以降もラクダを使う伝統的なキャラバンが塩の交易を行なっている。
地理
サハラ砂漠サハラ砂漠とサヘルの境界に位置するエネディ山地

サハラ砂漠は、北アフリカサブサハラ・アフリカの間に位置しており、地中海経済とニジェール盆地の経済を隔てる空間である。機械化された輸送手段なしにその空間を越えるのは、期待される利益が輸送コストと道中の危険の予想を上回る例外的な場合にのみ価値がある[3]

サハラ砂漠の一帯は1億8000万年前に塩湖の下にあり、交易品である塩鉱のもとになった[4]。11000年前から5000年前までは湿潤期で水に覆われた地域が多く、人間は中央の高地で生活していた[注釈 1]。紀元前3000年頃からの乾燥化で人間はサバンナや地中海沿岸に移住したと推測されている[6]。サハラ砂漠の気候は交易にも影響を及ぼしており、8世紀から16世紀にかけて西アフリカは比較的湿潤だったが、17世紀以降の乾燥化は移住を引き起こし交易が減少する一因となった[7]
サヘルサハラ砂漠の南に帯状に広がるサヘル

サハラ砂漠の周辺やサブサハラの南縁をサヘルと呼び、サバンナが広がっている。サハラ砂漠の南縁にはサヘルのステップが広がり、その南にはスーダン・サバンナ(英語版)と呼ばれる灌木とイネ科植物の多い地帯があり、さらに南には樹木の多いギニア・サバンナ(英語版)がある[8]

国家ではモーリタニア、セネガル北部、マリ、ブルキナファソ、ニジェール、チャド、アルジェリア南部、リビア南部にあたり、人口は8千万人におよぶ。かつてはフランス植民地だった地域が多い[9]
河川

サハラ砂漠の南を流れるニジェール川は、北の砂漠と南のサバンナの交易をつないでいる。砂漠やサバンナでは牧畜民が長距離を移動して生活しており、交易も牧畜民が担ってきたため、交易路は牧畜民のルートと重なっている。ニジェール川のデルタ地帯では農民や漁民が生活し、食料や衣などの生活物資を砂漠の都市に送った[10]

河川はサハラ交易の交易品である砂金の産地でもあった。セネガル川、ニジェール川上流、ボルタ川の森林などが採掘場所として知られ、時代とともに移り変わっていった[11][12]
地中海

サハラ砂漠の北に位置する地中海では、古代から貿易によって貴金属が東方へと運ばれていた。貴金属はアルプス、サルデーニャ、イベリア半島などで採掘されていた[13]。8世紀以降はサハラ交易によって西アフリカ産の金が地中海沿岸に運ばれるようになり、北アフリカ、アンダルス、西アジアの繁栄の基盤となった。15世紀以降はカタルーニャ、プロヴァンス、ヴェネツィアなどヨーロッパ各地の商人も金を求めて北アフリカに進出した[14]
地名

21世紀時点の地名と、サハラ交易が活発だった8世紀から16世紀にかけての歴史的な地名には違いがある。21世紀のスーダンはスーダン共和国南スーダン共和国を指すが、かつてのスーダンとはサハラ砂漠の南縁全体を表していた[15]。スーダンとはアラビア語で「黒人たちの国々」を意味するビラード=アッ・スーダーンに由来しており、8世紀から16世紀のアラビア語文献では西アフリカ全体やハウサランドを指す[16]。ガーナは21世紀ではガーナ共和国を指すが、かつてのガーナ王国モーリタニアマリ共和国の位置にあった[15]
交易品・キャラバン
交易品重要な品の1つである岩塩の板。掘り出されてキャラバンによって運ばれる[17]

歴史的に扱われてきた主な交易品として奴隷タカラガイコーラの実があった。塩とコーラの実は21世紀以降も取り引きされている[18]。キャラバンのラクダが背負える重量は100キログラムから120キログラムであり、採算を取るには旅費の1.5倍から2倍以上の価値の品物が必要だった。そのため贅沢品か国家が求める品を選んだ[19]

塩は塩山や塩鉱から掘り出されて南方へ運ばれた。塩鉱はアウリル、テガーザ、カウアル山地(英語版)などにあった。塩は交易路の定期市では各地の産物と交換され、さらに金やコーラと交換された[20]。21世紀以降もタウデニで採掘された塩が交易されている[21]。塩鉱で採掘された岩塩は板状に削られてバーと呼ばれ、バーの重量は1枚あたり約30キログラムとなる。バーをラクダで運ぶ場合は、ラクダの年齢に合わせて枚数を決める。4歳以上は左右2枚ずつ計4枚、3歳は3枚、2歳は2枚となる[22]ヴェネツィア共和国のドゥカート金貨。サハラ交易の金はヨーロッパの金貨にも使われた[23]

金は、西スーダンのセネガル川で産する砂金が主なものだった。「スーダンの金」とも呼ばれ、北から運ばれる塩と交換された。金はイスラーム王朝が発行するディナール[24]や、ヨーロッパのドゥカートやフローリン[23]などの金貨の素材となった。豊富な金によってガーナ、ガオ、マリ、ソンガイなどの国家が栄え、「黄金がニンジンのように土から生える」という伝承が地中海沿岸では生まれた[12]。金が南から北へ運ばれ続けたのは、貨幣文化の違いもあった。金を産出する西アフリカでは、タカラガイの貝貨や、銅、塩、布が貨幣に使われており、金は装身具や贈り物だった[注釈 2][26]。砂金は16世紀には枯渇が進んだ[11]

奴隷は塩や金に次いで高価な交易品として扱われ、9世紀頃からマグリブ、アンダルス、エジプト、アラビア半島、メソポタミアへと運ばれた。こうした奴隷の増加とともに、アラビア語文献では黒人が劣った人間として記録された。最初期の文献はマスウーディーの『黄金の牧場と宝石の鉱山』(947年)であり、黒人を「知能が足りず、知性が弱い」と論じている。のちのアラビア語文献も黒人の能力について同様の記述をしており、劣る者とみなすことは時代とともに減ったものの16世紀まで続いた[注釈 3][28]。奴隷は16世紀までは年間平均で4000人から5100人、その後はモロッコやハウサ諸王国の影響で7000人に達したとされる。主に若い女性が交易され、妻妾や召使いにされた。男性はオアシスのナツメヤシ畑の管理者、兵士、官僚にされた。ヨーロッパ諸国による大西洋奴隷貿易とは、規模や奴隷の扱いが異なっていた[注釈 4][31]1845年のアラブ商人が使っていた貝貨。タカラガイが使われている

タカラガイはモルディブ諸島で採取されたものがインド洋を越えて運ばれ、アフリカで貝貨として使用された[注釈 5]。9世紀頃からモルディブのタカラガイが運ばれていたとされ、紅海から北アフリカをへて交易路に入るルートか、地中海沿岸を進んでサハラ砂漠を横断するルートが使われた[注釈 6][34]

コーラの実は西アフリカで広く使われている嗜好品で、新鮮な実を刻んでチューインガムのように噛み、眠気覚ましや興奮剤にする[35]。食感は生のニンジンに似ており、渋味がある[36]。サハラ交易では14世紀以降に扱われるようになった[37]。森林地帯のコラの木から産するため、時には2000キロメートル以上を運んだ。高温と乾燥で劣化するため品質の維持に労力と財力が必要で、富と権力の象徴とされた[35]

その他の品として、胡椒、象牙、皮革、ダチョウの羽根、銅、ガラス、ビーズ、高級織物、馬[19]、大理石、ヘンナの種、陶磁器、インディゴギニアショウガココヤシなどがあった[37]。農産物は交易品に選ばれなかった。その理由として、(1) 農作物の余剰が少なかった。(2) 農作物の種類が同じ地域が広範囲におよび、交換する意義がなかった。(3) 車輪や牛馬などの運搬手段がなく、かさばる上に利益の少ない農産物は品物にならなかった[38]
キャラバン

サハラ交易の中心となった人々は、アマジグ人[注釈 7]ハウサ人、マンデ系のジュラ人(英語版)やヤルシ人、トゥアレグ人などであり、14世紀頃にはユダヤ人も参加した[40][41]。これらの集団は交易路沿いに暮らす人々にとっては外部の人間だった。交易集団の多くはイスラームを信仰しており、アラビア語の文字文化を持ち、長衣や装身具などの威信財をもたらす者として各地の政治指導者に影響力を持った[40]

キャラバンの運搬ではヒトコブラクダが用いられ、ラクダはアラブ系の民族がサハラを越えて定着する助けにもなった[注釈 8][42]。近代までサハラ砂漠はラクダがいなければ横断できなかったが、サハラ砂漠の南縁を越えると雨量が急速に増えるためラクダには適さない環境になる[43]。この地域でのラクダの家畜化に関する最初期の証拠は3世紀のものである。アマジグ人が使用して、ラクダはサハラ砂漠全体を縦断するより定期的な往来を可能にしたが、一定の交易路が出来るのは、7世紀から8世紀に西アフリカがイスラームに改宗してからである[44]

塩を運ぶキャラバンはアザライ(英語版)と呼ばれ、アザライとはタマシェク語で「出会うために別れる」という意味がある[45]。アザライのメンバーは塩の商人と契約をしており、輸送の代金として岩塩の板であるバー4枚のうち3枚を報酬として受け取る。アザライは盗賊に襲撃される危険があるため、報酬は高かった[46]。キャラバンは暑い日中を避けて夜中から午前中にかけて移動し、夜中の気温は2度、太陽が昇ると35度を超える[47]。水やラクダの餌を全て運べないため、帰りに使う水や餌を道中に埋めておくなどの方法もとられた[48]

21世紀時点のトゥアレグ人のアザライは、ラクダ300頭の編成だった[48]。過去のキャラバンの規模は、14世紀の旅行家イブン・バットゥータによれば、平均的には1000頭のラクダからなるが、1万2千頭に及ぶものもあったという。砂漠に詳しいアマジグ人のガイドが高い報酬で付き添い、仲間の遊牧の民に通行の安全を保証させた。キャラバンの成功は不確実であり、細心の手配が必要だった。全旅程で必要になる量の水を運べないため、オアシスが何日も先にあるうちに使い走りがオアシスに先回りして水を確保した[49]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:162 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef