サドバリー_(オンタリオ州)
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グレーターサドバリー

モットー:"Aedificemus"(ラテン語
"Come, let us build together"

オンタリオ州内の位置
座標:.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯46度30分00秒 西経81度00分00秒 / 北緯46.50000度 西経81.00000度 / 46.50000; -81.00000
基礎データ
 カナダ
 オンタリオ州
行政区グレーターサドバリー
都市名グレーターサドバリー(英称)
グランサドバリー(仏称)
英語名City of Greater Sudbury
仏語名Ville du Grand Sudbury
創設日1893年(サドバリー)
2001年(グレーターサドバリー)
面積3,228.35 km2
標高海抜 347.5 m
人口2016年[1]
 - 市域161,531 人(国内29位)[2]
 - 人口密度49.7 人/km2
 - 都市的地域88,054 人[3]
 - 人口密度1,159.7 人/km2
時間帯東部標準時(EST)、UTC-5
夏時間東部夏時間(EDT)、UTC-4
郵便番号P3(A-G), P3L, P3N, P3P, P3Y, P0M
市外局番+1-705
公式サイト

サドバリー(英語:Greater Sudbury、仏語:Grand-Sudbury、発音:[?s?db?ri, ?s?db?ri]; "s?d'b?r?, -b?r?")は、カナダオンタリオ州北オンタリオ地方最大の都市。人口は16万1531人(2016年統計)。サドバリー地区とは独立しており、同市だけで州内の地方行政区のひとつを構成している。また、フランス系住民が多い北オンタリオ地方の拠点として英語とフランス語のバイリンガル都市でもある。

2001年に広域圏の周辺都市を合併し、カナダで5番目に面積の大きい広大な市域を持つグレーターサドバリーが誕生した。複数の都市によって構成されているグレータートロント(GTA)やグレーターモントリオールとは違い、サドバリーは単一の都市で成り立っている。今でも一般には「サドバリー」として知られているが、オンタリオ州ではこの都市に限り2つの公式名称があり、英語の公式名称は「グレーターサドバリー」、仏語の公式名称は「グランサドバリー」である。
歴史

サドバリーの土地はアルゴンキン語派オジブワ族がすむ地域であったが、1883年に町として組織され、1930年に市政となる。初期の都市名は「サンタンヌデパン(Sainte-Anne-des-Pins ("St. Anne of the Pines"))」と呼ばれ、木材産出地としスタートした。当時からフランス系住民の入植が進み、フランコオンタリオンの基礎が築かれた。

カナダ太平洋鉄道(CPR)を敷設途中、爆破と掘削の中で高い純度のニッケルを含む鉱石がサドバリー盆地サドベリー隕石孔)の端にあるマレー鉱山(Murray Mine)で発見された。その後、鉱山の町として急速に発展する。

地域の名はCPRの所長であったジェームズ・ワーシントン(James Worthington)の妻の出身地、イギリスのサドバリーから来ている。

サドバリーの経済はその後、世界のニッケル需要に大きく依存しながら好景気と不景気のサイクルを繰り返した。最初の大きな需要の波は第一次世界大戦時に訪れ、終戦後、需要を一気に失い、1920年代、一旦需要を取り戻した。それから、また大きな落ち込みをみせた後、第二次世界大戦で再び需要を取り戻す。終戦後の冷戦では、アメリカ政府が非共産圏におけるニッケルの供給基地として選んだため、安定した需要を得ることになった。

1940年、サドバリーにはカナダで最初となるパーキングメーターが導入された。

街は1950年代から1960年代、大手の鉱山会社であるインコ社(Inco)やファルコンブリッジ社(Falconbridge)の従業員が会社を相手に労働紛争を起こし、大規模な雇用不安に悩まされた。この労働争議は労働組合の権利を求めるだけでなく、労働組合のあり方を訴えかけるための闘いでもあった。

労働争議はその後も街の経済に大きな挑戦を与えた。1979年、インコ社の労働者は生産と人員の削減に反対してストライキを起こし、解決に9ヶ月の歳月を要した。インコ社は当時、街最大の雇用主であり、その結果、ストライキは街の経済に大きな打撃となった。

ストライキがようやく終わった1980年、市は停滞した街の経済を立て直す必要性に迫られ、1980年代から1990年代にかけて、新しい企業や産業を誘致する積極的な政策を打ち出した。

鉱業は今でも重要な産業として残っているが、商業や行政、観光、科学技術の研究などの環境が整備され、多様化された結果、経済の基盤が強化された。インコ社は今なお、単独の雇用主としては街最大であるが、鉱業全体では、街最大の産業ではなくなった。

同市の政策として1996年、カナダ国内でもいち早く光ファイバーネットワークを導入し、企業や個人向けに市内を網羅する400kmの光ファイバーケーブルが敷設されている。この都市計画は世界的にも高い評価を受けている ⇒[1]

2001年に旧サドバリー市(人口85,354人)、バレーイースト市(人口22,374人)、レイサイド・バルフォー町(人口15,046人)、ニッケルセンター町(人口12,672人)、ワルデン町(人口10,101人)、オナピングフォールズ町(人口4,887人)の自治体で構成されるサドバリー地域が解体されてさらにカプレオル町(人口3,486人)とワナップ地域、ワナピティ湖を加えて単一のグレーターサドバリー市となった。


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