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サティヤ・サイ・ババ
Sathya Sai Baba
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生誕サティヤ・ナーラーヤナ・ラージュ
1926年11月23日
イギリス領インド帝国、マドラス管区、アナンタプル県、プッタパルティ
死没 (2011-04-24) 2011年4月24日(84歳没)
(公式にはインドの伝統的な数え方による満85歳没とされている。ヒンドゥー太陰暦では満96歳没)
インド、アーンドラ・プラデーシュ州、アナンタプラム県、プッタパルティ
住居プラシャーンティ・ニラヤム
国籍 インド
親父: ペッダ・ヴェーンカマ・ラージュ(1885-1963)
母: イーシュワランマ(1890-1972)
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サティヤ・サイ・ババ(Sathya Sai Baba, ???? ???? ????, 1926年11月23日 - 2011年4月24日)は、インドのスピリチュアルリーダー。日本ではサイババと呼ばれているが、サイ・ババの正確な発音は、サンスクリット語ではサーイ・バーバー(S?i B?b?)、ヒンディー語ではサーイー・バーバー(S?? B?b?)である。サティヤはサッティヤと発音される。
活動本拠地としてインドのいくつかのアシュラム、病院、学校があるほか、国内外に数百万もの信奉者を獲得し、世界126カ国に1,200のサティヤ・サイ・ババ・センターを作った[1]。1972年にサイ・ババが設立したシュリ・サティヤ・サイ・セントラル・トラストは、2020年に国連の特別諮問機関として選出された[2]。また、新型コロナウイルス対策について、ユニセフと連携した[3]。サイ・ババ御降誕97周年祭には、ナレンドラ・モディ首相からお祝いのメッセージが届いた(原文・訳文参照)。
生涯サイ・ババ(1940年代)サイ・ババ(1948年)サイ・ババ(1996年)
サイ・ババは、1926年11月23日に南インド、アーンドラ・プラデーシュ州アナンタプラム県のプッタパルティという小村の貧しいラトナーカラム家に生まれ、サティヤ・ナーラーヤナ・ラージュ (Sathya Narayana Raju) と名づけられた。
1940年5月23日、14歳の時、自分はシルディ・サイ・ババ(シルディ・サーイー・バーバー)の生まれ変わりで、シヴァとシャクティのアヴァター(化身)であり、人々の悩みを取り払うために降臨したと宣言し、サイ・ババ(サーイー・バーバー)を名乗ることにした。ちなみに、このサーイー・バーバー(S?? B?b?)という名称は「聖なる父」という意味で、サーイー (S??) はペルシャ語で「聖なる者」、「聖者」(通常はイスラーム教の苦行者)を意味し、バーバー(B?b?) はインド語圏で「父」を意味していた。
1940年10月20日に家を出てから説法を始めると、不治の病を治すといった数々の奇跡が人々に知られるようになり、サイ・ババの名前は次第にインド全土に広がっていった。1960年代末には、インド人やインド系の民族を中心に世界各国に数百万人以上の信奉者をもつようになった。サイ・ババの講話を編纂した書籍とサイ・ババとの体験をつづった本は数百冊出版され、さまざまな国で翻訳されるようになった。
1990年代には、シャンカルダヤール・シャルマー元インド大統領や、ナラシンハ・ラーオ元インド首相らがサイ・ババを表敬訪問した。日本では青山圭秀がサイ・ババを取り上げ、『理性のゆらぎ』(1993年)、『アガスティアの葉』(1994年)、『真実のサイババ』(1994年)を出版した。サイババとアガスティアの葉は、紹介者の青山が東大の大学院を出た理学博士・医学博士という理系のエリートだったこともあり人気となり、現実社会に生きることに不安を抱え、神秘的なもの、霊的なものに興味を持つ人々の注目を集めた。青山の本を読んでサイババに興味を持った棋士の林葉直子が、内弟子として住み込んでいた棋士の米長邦雄のもとから、インドのサイババに会いに行くと言い残して失踪し(林葉は実力のある棋士だったが、最盛期を過ぎ、曲がり角の時期だった)、これがワイドショーや女性週刊誌などで盛んに報道されたことから、サイババの存在は広く日本社会に知られ、サイババ・ブームが起こった[4]。当時テレビで活躍していた霊能者の宜保愛子がサイババに会いに行く番組など、関連する番組が数多く作られた[4]。
1994年、サイ・ババは、長年深刻な水不足に悩まされ干魃と食糧飢饉に苦しんでいた南インドのアーンドラ ・プラデーシュ州、アナンタプール地区に住む300万を超える人々に対し、飲料水を供給する「恵みの水」プロジェクトを開始すると宣言した。そして総延長距離が日本列島の長さに達するほどの水道施設工事を開始から10ヶ月という驚異的な短期間に成し遂げ、1995年11月23日に完成式典が行われた。このプロジェクトは、1997年10月にアンドラ・プラデーシュ州政府に正式に引き渡された[5][6]。1999年、「恵みの水」プロジェクトに対する業績を記念して政府から切手が発行された [2]。
1990年代末から2000年にかけて、イギリス人のデヴィッド・ベイリー(ピアニスト)らがサイ・ババのバッシングを始め、マスコミやインターネット上でさまざまな噂が飛び交い、信奉者が減少した。2000年9月、ユネスコはこれらの批判報道を憂慮し、サイ・ババの教育団体とユネスコの共催で開催予定だった教育会議への共催と参加を撤回した。2004年2月5日、ユネスコは、インド政府ユネスコ常任代表に2000年の教育会議の一件に関する謝罪文を提出した(原文・訳文参照)。
2001年を迎えるとサイ・ババの活動は見直され、再び信奉者が増え始め、無料の病院や学校、水道設備の供給といったサイ・ババの社会奉仕事業が高く評価されるようになった。2001年、国連ハビタットはサイ・ババの提唱するヒューマンバリュー教育(EHV)を用いた水教育をアフリカ諸国で開始した。2004年には国連ハビタットとアジア開発銀行がサイ・ババのヒューマンバリュー教育をアジア太平洋地域の水教育に導入するプロジェクトを開始した[7]。