サッダーム・フセイン
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この記事は「前掲書」・「同書」・"ibid."・"loc. cit." などの表現を用いて文献を示していますが、他の利用者の編集によって順番が入れ替わるおそれがあるためこうした参照方法は推奨されません。書誌情報の記載にはガイドラインで推奨される方法を用いてください。(2024年6月)

サッダーム・フセイン・アブドゥルマジード・アッ=ティクリーティー
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1998年のフセイン
イラク共和国
第三共和政第2代 大統領
任期1979年7月16日2003年4月9日
イラク共和国
第三共和政第7代 首相
任期1994年5月29日2003年4月9日
イラク共和国
第三共和政第3代 首相
任期1979年7月16日1991年3月23日

出生 (1937-04-28) 1937年4月28日
イラクティクリート
アル=アウジャ村
死去 (2006-12-30) 2006年12月30日(69歳没)
イラクバグダード
政党 バアス党
配偶者下記参照
宗教イスラム教スンナ派
署名

サッダーム・フセイン(??????? ??????? , 文語アラビア語発音:?add?m ?usayn, サッダーム・フサイン / 口語アラビア語発音:?add?m ?usein, サッダーム・フセイキン、1937年4月28日 - 2006年12月30日)は、イラク共和国政治家スンナ派アラブ人であり、イラク共和国の大統領首相革命指導評議会議長、バアス党地域指導部(英語版)書記長、イラク軍(英語版)最高司令官を務めた。軍階級は元帥日本語の慣例では、彼の名をサッダーム・フセインと表記することが多いが、本項ではサダムと表記する(詳細はフルネームの節を参照)。
生い立ち
出生青年時代のサッダーム

イラク北部のティクリート近郊のアル=アウジャ村で農家の子として生まれ、「敵を大いに撃破する者[1]」という意味のアラビア語人名「サッダーム」を名付けられた。アル=ブー・ナースィル族(???? ????, 転写:Al-B? N??ir, 発音:アル=ブー・ナースィル, 主な英字表記:Al-Bu Nasir)[注釈 1]出身であり、のちの大統領アフマド・ハサン・アル=バクルとは従兄弟であった。父フセイン・アブドゥルマジード(フセイン・アル=マジードとも)はサッダームが生まれた時には既に死んでおり、母スブハ・タルファーフは羊飼いのイブラーヒーム・ハサンと再婚して、サッダームの3人の異父弟を生んだ。

10歳の時から、母方の叔父ハイラッラー・タルファーフのもとで暮らした。8歳の時に、ハイラッラーの娘で従姉妹にあたるサージダ・ハイラッラーと婚約している。サッダームの敵に屈しない性格とイランを敵視するアラブ民族主義は、叔父ハイラッラーの影響から生まれたと言われている。小学生の時からを持ち歩き(当時、銃を持つのはティクリート一帯で普通のことであった)、素行の悪さから学校を退学させようとした校長を脅迫して、退学処分を取り消させている。1947年に叔父とその息子アドナーン・ハイラッラーと共にティクリートへ出て叔父が教師を務める同地の中学を卒業した。
バアス党

1955年に当時、中央政府の教育庁長官になっていたハイラッラーの後を追ってバグダードに移り住む。1957年バアス党に入党する。このころのサッダームは、バグダードのストリートギャングを率いていたといわれる。ハーシム王政崩壊後の1959年には叔父が教育庁長官の職を追放されるきっかけを作った(当時のイラクは親英派の王制であった)ティクリート出身の男性をハイラッラーの命により銃で殺害した。ハイラッラーとサッダームは殺人容疑で逮捕されたが、証拠不十分で釈放となった。

1950年代は、エジプト革命が起こり、親英の王制が倒されてガマール・アブドゥル=ナーセル政権が樹立に向かっている時期にあたり、アラブ諸国ではアラブ民族主義が高まりを見せており、サッダームもナーセルの影響を受けた。1958年には、イラクでも軍部によるクーデター7月14日革命)により親英王制が打倒されている。
政治活動
亡命エジプトに亡命したサッダーム(前列右から3人目)

バアス党は親英王制を打倒させ政権についていたアブドルカリーム・カーシムがアラブ統一よりもイラクの国益を優先する政策をとりアラブ連合共和国への参加に懐疑的だったため、1959年にカーシム首相暗殺未遂事件を起こした。この事件に暗殺の実行犯として関与したサッダームは、カーシムの護衛から銃弾を受けて足を負傷するが、剃刀を使って自力で弾を取り除き、逮捕を逃れるためベドウィンに変装し、ティグリス川を泳ぎ継いで、シリア亡命、ついでエジプトに逃れた。シリア滞在中にはバアス党の創始者ミシェル・アフラクの寵愛を受けた。亡命中の欠席裁判により、サッダームは死刑宣告を受けた。

サッダームは、エジプトで亡命生活を送りながら高等教育を受け、カイロ大学法学部に学んだ。帰国後の1968年には、法学で学位を取得したとされるが、カイロ大学にはサッダームの在籍記録が存在していない(=卒業の確認が取れない)。カイロでのサッダームは、何かと周囲に喧嘩を吹っかけるなど、トラブルメーカーであったと、当時サッダームが出入りしていたカフェのオーナーが証言している。
クーデター

1963年アブドッサラーム・アーリフ将軍が率いたクーデター(ラマダーン革命)によりカースィム政権が崩壊してバアス党政権が発足すると、サッダームは帰国してバアス党の農民局長のポストに就いた。また、このころ党情報委員会のメンバーとして、イラク共産党に対する逮捕、投獄、拷問などを行なったと言われているが真偽は不明。1963年には党地域指導部(RC)メンバーに選出され、バアス党の民兵組織の構築にも関与した。この年サージダと正式に結婚する。

しかし、この第一次バアス党政権は党内左右両派の権力争いにより政権を追われる(1963年11月イラククーデター)。1964年、サッダームはアーリフ大統領の暗殺を企てたものの、事前に発覚し、逮捕投獄された。1965年に獄中でRC副書記長に選出された。1966年看守を騙して脱獄し、地下活動を行なう。

1968年7月17日アフマド・ハサン・アル=バクル将軍の率いるバアス党主導の無血クーデター(7月17日革命)により党は再び政権を握った。このクーデターでサッダームは、戦車で大統領宮殿に乗り付けて制圧するなど主要な役割を果たしている。
政権ナンバー2に1975年、イランモハンマド・レザー・パフラヴィー国王(右)とサッダーム(左)

バクル政権では副大統領になり、治安機関の再編成をまかされ、クーデターに協力したアブドラッザーク・ナーイフ首相の国外追放、イブラーヒーム・ダーウード国防相の逮捕など、バクル大統領の権力強化に協力し、その結果、1969年、革命指導評議会(RCC)副議長に任命された。また、この時期にサッダームはイラク・バアス党をシリア・バアス党の影響力から引き離す工作を始め、「イラク人民とは文明発祥の地、古代メソポタミアの民の子孫である」とする「イラク民族主義」(ワタニーヤ)をアラブ民族主義(カウミーヤ)と融合させてイラクの新たなイデオロギーに据えた[2]

このころ、サッダームは治安・情報機関を再編成し、その長に側近や親族を充てて、国の治安機関を自らの支配下におき、イラクを警察国家に変貌させ、秘密警察による国民の監視が強化された。政府省庁やイラクの国軍内部にもバアス党員からなる政治委員を設置し、逐一動向を報告させている。

また、政府の高位職に同郷であるティクリートやその周辺地域の出身者を多く登用している。そのため、恩恵に与れない他地域の人間の間には不満が募っていった。

そんな中、1973年6月、シーア派のナジーム・カッザール国家内務治安長官が、バクルとサッダームの暗殺を企てるが、事前に露見し、サッダームの素早い決断によりクーデター計画を阻止している。カッザールとその一派は特別法廷により死刑を宣告され、処刑されたが、この際に事件と関わりの無い人物、主に、清廉な人物としてイラク国民からの人望も厚く、次期大統領との呼び声も高かったアブドルハーリク・サーマッラーイーのような、バアス党内におけるサッダームのライバル達も陰謀に加担した容疑で粛清された。
大統領就任サッダームの公式肖像画(1979年)

1979年7月17日、バクルが病気を理由に辞任すると発表した為、イラク共和国第5代大統領(首相兼任)に就任した。

バアス党内には、バクルの突然の辞任に疑問を呈する者もおり、これはバクルが1978年10月に当時対立していたシリアハーフィズ・アル=アサドと統合憲章を結んだためとされた[3][4][5]。1979年7月22日、アル=フルド・ホールで開かれた党臨時会議により、党内部でシリアと共謀した背信行為が発覚したとして、サッダーム自ら一人ずつ「裏切り者」の名前を挙げていき、66人の人物が、会場に待機していた情報総局(ムハーバラート)の人間によって外へと連れ出され、その日のうちに革命指導評議会メンバーで構成される特別法廷により、55人の人間が有罪を宣告され、22人は「民主的処刑」と呼ばれた方法、仲間の党員の手によって銃殺となった。一連の出来事はクーデター未遂事件として扱われ、同月30日までの処刑者は34人、逮捕者は約250人にのぼった[6]

粛清された人間には、サッダームの大統領就任に反対した、ムヒー・アブドルフセイン・マシュハダーニー革命指導評議会中央書記局長、サッダームの側近の一人だったアドナーン・アル=ハムダーニー副首相、イラク石油国有化の舵取り役だったムルタダー・ハディーシー元石油相も含まれる。また、この時に党から除名された人物も後になって暗殺や投獄を受けて処刑され、党内の反サッダーム派は一掃された形となった。
イラン・イラク戦争イラン・イラク戦争当時、米国の特使として派遣されたドナルド・ラムズフェルド(左)と握手するサッダーム(右)詳細は「イラン・イラク戦争」を参照

1979年イラン革命によってイランシーア派イスラーム主義イスラーム共和国が成立し、イラン政府は極端な反欧米活動を展開した。また、革命の波及を恐れていたのは欧米だけでは無く、周辺のバーレーンサウジアラビアなどの親米スンニ派の湾岸アラブ諸国も同様であった。

サッダームは、こうした湾岸諸国の危機感や欧米の不安を敏感に感じ取っていた。1975年に自らが当時のパフラヴィー朝との間で締結したアルジェ合意で失ったシャットゥルアラブ川の領土的権利を回復し、欧米諸国やスンニ派アラブ諸国の脅威であるイラン・イスラーム体制を叩くことで、これらの国の支持と地域での主導権を握り、湾岸での盟主の地位を目指すというのがサッダームの戦略であった[7]。また、革命の前年1978年にバグダードで主催した首脳会議でアラブ連盟から追放したエジプトに代わってイラクをアラブの盟主にすることも画策していた[8]

また、サッダーム率いるバアス党政権は、イラン革命がイラク国内多数派のシーア派にも波及することを恐れていた。実際、1970年代には、南部を中心にアーヤトゥッラー・ムハンマド・バーキル・サドル(英語版)率いるシーア派勢力が、中央政府と対立していた。1980年4月には、ターリク・アズィーズ外相を狙った暗殺未遂事件が発生し、さらに同外相暗殺未遂事件で死亡したバアス党幹部の葬儀を狙った爆弾テロが起こり、事ここに到ってサッダームは、ムハンマド・バーキル・サドルを逮捕し、実妹と共に処刑した。


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