サッカー競技規則(サッカーきょうぎきそく、英: Laws of the Game)は、国際サッカー評議会(IFAB)により制定されるサッカーの基本ルールである。FIFAに加入している全ての組織は競技規則に従って公式戦を行わなければならない。 毎年2月か3月に開催される国際サッカー評議会 (IFAB) 年次総会で、国際サッカー連盟 (FIFA) の4票、イギリス本土4協会(イングランドサッカー協会・スコットランドサッカー協会・ウェールズサッカー協会・北アイルランドサッカー協会)が各1票の計8票のうち3/4以上つまり6票以上のルール改正賛成票があればルールが改正される[1]。ルール改正後、5月末までにFIFAからFIFA加盟各国のサッカー協会に通達され、6月1日から全世界で施行される(国際試合は6月1日から即施行。ただし、6月1日までにその年のシーズンが終わっていない大陸連盟および加盟協会は次のシーズンの開始まで新ルール施行を延期できる。日本では例年6月1日以降のしかるべき日、遅くとも8月中には施行している[2]。6月1日以前に、シーズンを開始する場合は、IFABの改正に関する通達の直後に施行することができる[3][1])。つまり、毎年サッカーのルールは細かく変更されている。そのため、審判は毎年、更新講習会を受ける必要がある(未受講の場合、審判資格を失効する)。近年、IFAB年次総会で結論が出なかった内容などについては、6月か7月のIFAB特別会議を経て、その他の指示や方向性(通達)として改めて伝えられるようになった。 したがって、下記のルールも変更あるいは削除(ルール及び用語自体が無くなっている)されている場合がある。例えば、キーパーチャージ(ゴールエリア内のキーパーへのチャージを禁ずる)の反則は、1997年のルール改正で削除され現在は存在しない。最新のルールおよび通達については日本サッカー協会公式HP[3]やFIFA公式HP[4]やIFAB公式HP[5]を参照のこと[6]。 2015年2月頃に改正されたサッカー競技規則2015/2016までは、IFABが制定したルール(競技規則等)をFIFAが冊子として発行していたが、2016年3月IFAB年次総会で改正されたサッカー競技規則2016/2017以降は、IFABが直接ルール(競技規則等)の英語版(正式な原本)、フランス語版、ドイツ語版およびスペイン語版の冊子(ルールブック。競技規則本)を発行している。文章表現や解釈に疑問が生じた場合は、英語版の競技規則に基づくものとされている(日本では、日本サッカー協会が英語版を毎年改正部分を含めて日本語に翻訳、表現を見直しながら日本語版出版)[7]。 今日、サッカー競技規則は17条、全50ページで構成されており、1997年の規則改正にて大幅に簡素化されることになった。これらの規則はイングランドのコモン・ローの形式で書かれている。 1863年10月26日にイギリスのロンドンにあるフリーメイソンズ・タバーンにて、「統一ルールの作成と、試合における同ルールの運用に携わる協会の設立」を目的としてエベネーザー・コッブ・モーリーらとロンドンの12(資料によっては11)のクラブの間で会議が開かれた。この日がフットボール協会(FA)の公式な設立日とされる。1863年12月8日まで計6回のミーティングを経て、14条から成る世界で最初のサッカー統一ルールが作成された[8]。この統一ルール作成により近代サッカーが本格的に誕生した。このサッカー統一ルールでの世界初の試合は、1863年12月19日にイングランドで行われたリッチモンド対バーンズ戦で、0-0の引き分けだった。 「フットボール」と称される競技は中世からイギリスで人気を博していた。これらの競技の規則は共通でもなく法典化もされていなかった。初めて出版された「フットボール」のルールはラグビー校のもの(1845年)であり(このルールは広範なハンドリングを認めていた)、すぐにイートン・フィールド・ゲームが続いた(1847年)(この競技はボールのハンドリングについてかなり制約が多かった)。1830年代から1850年代の間に、数多くの競技規則がケンブリッジ大学で使用するために作られた(ケンブリッジ・ルールを参照されたい)。しかし、これらは当時は一般的に出版されず、多くはその後に失われた。(スクールあるいは大学ではなく)フットボール「クラブ」によって出版された初の詳細な規則集はシェフィールドFCのものであった(1858年に書かれ、1859年に出版された)。シェフィールドFCが法典化したこの競技は(フットボール協会のコードとの統合によって)廃止されるまで、改正を繰り返しながら20年間プレーされた。メルボルンFC 規則の統一に向けた重要な段階は1848年のケンブリッジ・ルールの策定であるが、普遍的に採用された訳ではなかった。 1863年の規則は初めエベネーザー・コッブ・モーリー
概要
構成
第1条:競技のフィールド
第2条:ボール
第3条:競技者
第4条:競技者の用具
第5条:主審
第6条:その他の審判員
第7条:試合時間
第8条:プレーの開始および再開
第9条:ボールインプレーおよびボールアウトオブプレー
第10条:試合結果の決定
第11条:オフサイド
第12条:ファウルと不正行為
第13条:フリーキック
第14条:ペナルティーキック
第15条:スローイン
第16条:ゴールキック
第17条:コーナーキック
歴史「サッカーの歴史」も参照
1863年以前
1863年の規則フットボール・アソシエーションを代表してエベネーザー・コッブ・モーリーによって1863年に起草された最初の手書きの「競技規則」。マンチェスターの国立サッカー博物館に展示されている。
1863年12月5日に承認され、『ベルズ・ライフ・イン・ロンドン(英語版)』で公開された1863年のフットボール協会規則は以下の通りである。
グラウンドの最大長は200ヤード (183 m)、最大幅は100ヤード (91 m)、長さと幅は旗によって目印を付けるものとする; ゴールは、ひもや棒が渡されていない、8ヤード(7.3メートル)離れて立てられた2本の直立したポストで定義されるものとする。
陣地を決めるためのコイン投げを行うものとし、試合はコイン投げで負けた側によるグラウンド中央からのプレースキックで開始するものとする; 相手側はキックオフされるまでボールの10ヤード (9.1 m)以内に接近してはならない。
ゴール(得点)が決まった後、決められた側はキックオフの資格を得るものとし、ゴールが決まるたびに陣地を交換するものとする。
ゴールは、ボールを投げたり、前に落としたり(ノックオン)、手で持って運んだりすることなく、ボールがゴールポストの間あるいはゴールポストの間の空間の上を(どんな高さでも)通過した時に得点となるものとする。
ボールがタッチ(タッチラインの外側)にある時、ボールに最初に触れた(タッチした)選手が、ボールがグラウンドを出た境界線上の地点から、境界線から直角の方向に向けてボールを投げるものとし、ボールがグラウンドに触れるまではプレー中(イン・プレー)ではないものとする。
選手がボールを蹴った時、相手側のゴールラインに近い方に位置している味方チームの選手は全員プレー外(アウト・オブ・プレー)であり、イン・プレーになるまでボールに触れたり、ボールに触れようとするその他の選手をいかなる方法でも妨害してはならない; しかし、ゴールラインの後方からボールがキックオフされた時はどの選手もプレー外ではない。
ボールがゴールラインの後方へ行った場合、もしゴールを守る側の選手が初めてボールに触れたならば、そのチームの選手は、ボールが触れられた場所のゴールラインを挟んで反対側の地点からのフリーキックの権利を得るものとする。もしゴールを攻める側の選手が初めてボールに触れたならば、そのチームの選手は、ボールが触れられた場所のゴールラインを挟んで反対側、ゴールラインの外(註: グラウンドの中)15ヤード (14 m)地点からゴールに向けたフリーキックの権利を得るものとし、相手側はフリーキックが行われるまでゴールラインの内(グラウンドの外)にいなければならない。
もし選手が速やかに踵で地面に印(マーク)をつけフェアキャッチを行ったら、その選手はフリーキックの権利を得るものとする; そのようなキックを行うためにその選手は望むだけ後方へ下がってよく、相手側の選手は彼がキックするまで付けられた印を越えて進んではならない。
ボールを持って走ってはならない。
トリッピング(足を掛けて転ばせる)あるいはハッキング(相手の脛を蹴る)は禁止とし、手を使って敵を押さえたり、押したりしてはならない。
手を使ってボールを投げたり、パスをしたりしてはならない。
いかなる場合でもプレー中は手でグラウンドからボールを拾い上げてはならない。
ブーツのソール(靴底)あるいはヒール(かかと)に、突き出たくぎ、鉄製の板、あるいはガタパーチャ[注釈 1]を装着してはならない。
『ベルズ・ライフ・イン・ロンドン』が報道するところによると、FAが承認した12月8日の会合において、ポケットサイズ版は1シリング、クラブルーム用のより大きな版は1シリング6ペンスで印刷できると述べたジョン・リリーホワイトが、この規則を出版することとなった。 サッカーの規則は長い期間をかけて変化した。イングランド、スコットランド、ウェールズ、アイルランドにおいて使用されていた規則の間に差異が生じてきたころから、規則を統括する国際サッカー評議会 (IFBA) が設立された(後述)。 特筆すべき規則の改正には以下のものがある[9][10][11][12][13]。
規則の発展
1866年 ? パスの受け手とゴールとの間に3人の選手がいるならば、前方へのパス(フォワードパス)が許可された。これは、現代ラグビーで見られるオフサイド
1867年 ? ゴールラインの後ろにボールが出た時の状況が単純化された。これによって全てのラグビーのような要素が取り除かれた。ボールをどちらのチームがタッチしたかにかかわらず守備チームにゴールキックが与えられるようになった[注釈 2]。
1870年 ? ボールの全てのハンドリングが禁止された(それ以前は、選手はボールをキャッチすることができた)。チームはハーフタイムにエンドを交換するが、前半に得点が生まれなかった時のみとされた[注釈 2]。
1871年 ? 「ゴールを守るため」にボールの手での扱いが許されるゴールキーパーのポジションの導入。
1872年 ? ハンドボールへの罰として間接フリーキックが導入された。ルールの違反に対する罰則措置の初めての言及である。コーナーキックが導入された。チームは後半の間はゴールが決まった後にエンドを交換しなくなった[注釈 2]。
1873年 ? ボールをタッチに出した相手側のチームにスローインが与えられた(それ以前は、ボールがタッチに出た後に最初に触った選手に与えられていた)[注釈 2]。ゴールキーパーはボールを「キャリー」(手で持って運ぶ)することが禁止された。
1874年 ? ハンドボールを罰するためだけに以前は使われていた間接フリーキックが、ファウルプレーとオフサイドにも与えられるようになった。試合の審判(「アンパイア」)に関する初の言及。それ以前は、チームのキャプテンが一般的に規則を遵守することが期待されていた[注釈 2]。
1875年 ? コーナーキックあるいはキックオフから直接ゴールを決めることができなくなった。チームはハーフタイムにのみエンドを交換することになった。ゴールはクロスバーあるいはテープのいずれかを備えることになった[注釈 2]。
1877年 ? スローインをどの方向に投げ入れてもよくなった(それ以前は、今日のラグビーユニオンと同様に、タッチラインに直角に投げ入れなければならなかった)[注釈 2]。この規則変更の結果として、シェフィールドフットボール協会のクラブは独自の「シェフィールド・ルール」を廃止して、FAの規則を採用することに合意した。これにより、FAのルールとシェフィールド・ルールとの統一が完了した。
1878年 ? スローインからの場合、選手はオフサイドを取られるようになった。
1881年 ? アンパイア間の議論を裁定するためにレフェリーが導入された。警告(「非紳士的な振舞い」に対して)と退場(暴力的行為に対して)が初めて規則に表われた。
1883年 ? イングランド、スコットランド、アイルランド、ウェールズの4協会の間で1882年12月に開かれた国際フットボール会議の結果として、ホーム・ネイションズの間で規則の統一がなされた。これは翌年にFAの規則へのいくつかの変更を必然的に伴った。スローインが最終的に現代の形に達し、選手は両手を使って頭の上からボールを投げることが必要になった。選手はコーナーキックからはオフサイドを取られなくなった。ゴールキーパーはボールを保持したまま2歩進めるようになった。ゴールはクロスバーを有していなければいけなくなった(テープの使用のオプションが除去された)。キックオフは前方にキックしなければならなくなった。タッチラインが導入された(以前は、旗がフィールドの境界線の目印だった)。
1887年 ? ゴールキーパーの相手陣でのボールの手での扱いが禁止された。
1888年 ? 審判によって中断された後にプレーを再開する手段としてドロップボールが導入された。
1889年 ? 警告に値する振舞いを繰り返した選手は退場を言い渡されうるようになった。
1890年 ? ゴールキックから直接得点することが認められなくなった。
1891年 ? ゴールラインから12ヤード以内でのハンドボールあるいはファウルプレーに対するペナルティーキックが導入された。アンパイアはラインズマンに置き換わった。ゴールエリア、ペナルティーエリア、センタースポット、センターサークルに対するピッチ上のマーキングが導入された。
1897年 ? 規則によって初めて各チームの選手数(11人)と各試合の長さ(90分、別段の合意がない限り)が規定された。ハーフウェーラインが導入された。グラウンドの最大の長さが200ヤードから130ヤードに短縮された。