この項目では、男子代表について説明しています。女子代表については「サッカーフランス女子代表」をご覧ください。
サッカーフランス代表
国または地域 フランス
協会フランスサッカー連盟
FIFAコードFRA
愛称Les Bleus
監督 ディディエ・デシャン
キャプテンキリアン・エムバペ
最多出場選手ウーゴ・ロリス(145試合)
最多得点選手オリヴィエ・ジルー(56得点)
ホームスタジアムスタッド・ド・フランス
ホームカラーアウェイカラー
初の国際試合
ベルギー 3 - 3 フランス
サッカーフランス代表(サッカーフランスだいひょう、Equipe de France de football)は、フランスサッカー連盟(FFF)によって編成されるフランスのサッカーのナショナルチーム。愛称はレ・ブルー(Les bleus - 「青」の複数形)、ル・コック(Le coq - 「雄鶏」の意)[1]。 FIFAワールドカップ優勝経験のある8チームのうちの1つであり、UEFA欧州選手権ではドイツ、スペインの3回に次いで、イタリアと並んで2回の優勝を経験している。UEFAネーションズリーグでも第二回大会で優勝を果たしている。FIFAランキングで首位に立った経験を持つ8チームのうちの1つでもある。イタリアに対してライバル意識が強く、国際大会で数々の名勝負を繰り広げている[注釈 1]。 初めての国際試合は、1904年5月1日にベルギーのブリュッセルで開催されたベルギーとの試合で、3-3の引き分けであった。ベルギーとは1917年の第一次世界大戦の終戦以降、その同盟を記念して長らく定期戦が実施されていた関係の深い間柄である。 FIFAワールドカップへは、生みの親とも言える功労者ジュール・リメが当時FIFA会長だったこともあってヨーロッパのナショナルチームとしては珍しく第1回大会から出場している。記念すべきワールドカップ初ゴールを決めたのもリュシアン・ローランであった。 最初に世界に名を轟かせたのは1958年スウェーデン大会である。アルベール・バトー率いるチームには「ナポレオン」の異名を取ったレイモン・コパが居り、彼のパスを受けたFWジュスト・フォンテーヌはゴールを量産し、大会中2度のハットトリックを含む13得点という記録を残して大会得点王に輝いた。このフォンテーヌの記録は後に西ドイツのゲルト・ミュラー、ブラジルのロナウド、ドイツのミロスラフ・クローゼによって破られるが、彼らの記録は2?3大会分を通算しての得点数であるため、1大会で達成した記録としては現在でも誰にも破られていない。準決勝でブラジルに敗れたものの、西ドイツを破って3位に入る健闘を見せた。 レイモン・コパに続いて「将軍」「ナポレオン」と呼ばれたミシェル・プラティニを中心にして、1978-1986年までワールドカップに3回連続して出場した時期が第2の黄金期である。アラン・ジレス、ジャン・ティガナ、ベルナール・ジャンジニ、ルイス・フェルナンデスらと組んだ中盤がシャンパンの泡が弾けるように軽やかにパスを繋げる流麗なサッカーは、シャンパン・フットボールと呼ばれて賞賛された。 1984年自国開催の欧州選手権にて初めての国際タイトルを獲得した。この大会ではプラティニが得点王になるほどの大活躍を見せ、選手としての全盛期であった(1998年大会でのユニフォームはこの年のデザインを踏襲したものである)。しかしワールドカップでは1982年スペイン大会、1986年メキシコ大会と共に準決勝で西ドイツに敗れた。 1982年の西ドイツ戦は1-1のまま延長へ突入し、前半マリユス・トレゾール、アラン・ジレスのゴールによる2点のリードで勝負あったかに見えたが、延長前半終了間際にカール=ハインツ・ルンメニゲの、延長後半にクラウス・フィッシャーのゴールで3-3の同点に追いつかれ、ワールドカップ史上初となるPK戦の末に敗れた。更に延長後半にパトリック・バチストンがハラルト・シューマッハーとの激突事故で重傷を負ったことも悲劇性を高めた。しかし、この1982年の準決勝・西ドイツ戦は1986年の準々決勝・ブラジル戦と並んでワールドカップ史上に残る試合として評価され、具体例に挙げられることも多い。 プラティニ、ジレスらが代表を退いた後は、ルイス・フェルナンデス、若手のジャン・ピエール・パパンらが中心となっていたが、ワールドカップ出場も2回連続で逃した。1990年イタリア大会のヨーロッパ地区予選ではホームゲームに3勝1分と無敗ながらもアウェーでユーゴスラビアとスコットランドに敗れた上に格下のノルウェー、キプロスと引き分けてしまうなど2敗2分に終り1勝も出来なかったのが響いて敗退。特に全8試合でキプロスにとっての唯一の勝点を献上しており、結果的にはそこで勝利していれば出場権を獲得していた。 EURO1992ではパパン、エリック・カントナ、ローラン・ブランらを擁して優勝候補との呼び声も高かったが、この大会で優勝することになるデンマークに敗れグループリーグ敗退。1994年アメリカ大会のヨーロッパ地区予選でも前評判は高かったが、勝てば突破確定となるホームのイスラエル戦で敗北、続く引分以上で突破確定となる最終戦、パルク・デ・プランスでのブルガリア戦に終了間際の得点で敗れ、土壇場で出場権を逃した。この試合は日本ではパリの悲劇と呼ばれている。そして、紆余曲折を経たフランスは新しい時代を迎えることとなる。 1998年のワールドカップに出場したチームからは、見た目で分かる変化を遂げている。それまでのフランス代表は白人主体のチーム構成であったが、アフリカや、カリブ海などのフランスの国外、若しくは旧植民地からの移民、若しくはその子孫の選手が増えたのである。 地元開催の前回大会となる1994年アメリカ大会の出場を逃すと、フランスは辞任したジェラール・ウリエのアシスタントだったエメ・ジャケを代表監督の座に据えた。ジャケはそれまでの伝統的な白人主体のチーム構成に、アフリカやカリブからの移民、その子孫を入れ始めた。その象徴が、ジャケ率いるフランス代表の中心選手となったアルジェリア系ベルベル人の子ジネディーヌ・ジダンである。 フランス代表にはそれ以前に移民やその子孫が存在していなかったわけではなかった。レイモン・コパはポーランド系移民で、プラティニもイタリア系の移民であった。マリユス・トレゾールやバシール・ボリなど黒人選手もいた。しかしこの目に見えるフランス代表の変質はフランスの国粋主義者によって罵倒されることになった。この代表格である極右政党国民戦線のリーダージャン=マリー・ル・ペンは「ラ・マルセイエーズを歌えない者にフランス代表が務まるか」と発言して物議を醸した。またジャケのもとには彼等を代表から外すようにとの脅迫が舞い込んだ。 ジャケはFWの得点力不足や選手選考など、様々な批判を浴びながら自国開催の1998 FIFAワールドカップに臨んだ。しかしジダンを中心とした豪華な中盤と、安定した守備を武器に順当に勝ち進んだ。グループリーグを3連勝で突破し、決勝トーナメント1回戦ではパラグアイの堅い守備に苦しみながらもローラン・ブランのゴールデンゴールで勝利。準々決勝で最大の敵イタリアとの死闘をPK戦の末に制すると、準決勝ではクロアチアをリリアン・テュラムの2ゴールで破った。そして1998年7月12日、スタッド・ドゥ・フランスでの決勝はジダンのヘディングによる2ゴールと終了間際のエマニュエル・プティのゴールで前回王者ブラジルに3-0で勝利し、様々なルーツを持つ選手たちが集まったフランス代表は自国開催で優勝という責務を果たした。試合後シャンゼリゼ通りはトリコロールで埋め尽くされ、凱旋門には国民の英雄となったジダンの顔が映し出されるなど熱狂の渦と化した。こうして様々な批判をかわしたフランスワールドカップ以降ジダンを初めとするフランス代表の移民の子孫たちは、フランス社会における移民の成功者、代弁者として扱われるようになった。2002年日韓大会直前のフランス大統領選挙でのル・ペンの躍進に際してジダンが政治的なメッセージを発したことにも関連する。 1998年ワールドカップの優勝後、ジャケのアシスタントのロジェ・ルメールが就任。UEFA欧州選手権2000の予選は苦戦の連続で、最終戦で引分以下なら本大会出場を逃していたが、その敗退が確定していたアイスランドとのホームゲームを一時は2点リードを追いつかれながら71分の決勝ゴールで3-2で勝利し突破を果たした。ベルギーとオランダで行われたUEFA欧州選手権2000本大会に臨む前に日本とハッサン2世杯で戦いPK戦(延長戦は行わず)で辛くも勝利するなど、世界王者でありながら下馬評はそこまで高くなかった。
概要
歴史詳細は「サッカーフランス代表の歴史(英語版
初期
プラティニの時代
暗黒時代
ジダンの登場
黄金期とその終焉
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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