サッカーコロンビア代表
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この項目では、男子代表について説明しています。女子代表については「サッカーコロンビア女子代表」をご覧ください。

サッカーコロンビア代表

国または地域 コロンビア
協会コロンビアサッカー連盟
FIFAコードCOL
愛称Los Cafeteros
コーヒーを作る男達)
監督 ネストル・ロレンソ
最多出場選手ダビド・オスピナ(127試合)
最多得点選手ラダメル・ファルカオ(36得点)

ホームカラーアウェイカラー

初の国際試合1938年2月10日メキシコ
1-3
最大差勝利試合1993年9月5日アルゼンチン
5-0
2004年6月6日ウルグアイ
5-0
2005年6月4日ペルー
5-0
最大差敗戦試合1945年2月7日アルゼンチン
1-9
FIFAワールドカップ
出場回数6回(初出場は1962
最高成績ベスト8(2014
コパ・アメリカ
出場回数23回
最高成績優勝(2001
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サッカーコロンビア代表(サッカーコロンビアだいひょう)は、コロンビアサッカー連盟(COL)によって組織されるコロンビアサッカーナショナルチームである。ホームスタジアムは、バランキージャにあるエスタディオ・メトロポリターノ・ロベルト・メレンデス
歴史
黎明期

コロンビアのサッカーは、20世紀初頭に当時南米の経済を支配していたイギリスとの交易を通して伝えられたのが始まりと言われている。マグダレナ川河口の港湾都市バランキージャに最初に伝えられ、1897年にはボゴタで現在のサッカーの規則と似た試合が行われたようである。1914年には、メデジン市内に国内初のサッカークラブが誕生する。1924年にバランキージャで「大西洋サッカー連盟 (LFA)」が結成され、コロンビアのサッカーを統括する組織となる。1931年FIFAに加盟し、1936年に「コロンビアサッカー連盟 (FCF)」に名を改めた。1940年代から1950年代にかけて主なサッカークラブが次々と創立された。1948年、10チーム参加のプロリーグがスタートし、ミジョナリオスインデペンディエンテ・サンタフェがリーグの中心となった。1949年にはチーム数が14に増やされている。

1938年には代表チームが組織され、コロンビア代表として初の国際試合を経験する。同年にはなぜかCONCACAF (北中米カリブ海サッカー連盟) に加盟しているが、結局CONMEBOL (南米サッカー連盟) の一員に落ち着いている。1940年代および50年代は代表の強化がうまく行かず、南米で最下位を争うほどであった。
混乱期

1950年に、ミジョナリオスを中心とした新リーグが発足。新リーグには石油・ゴム業界とマスコミ、マフィアがバックについていた。移籍金を払わずに海外の有名選手を獲得できる制度は、低賃金のアルゼンチンやウルグアイから大量に選手を獲得することにつながった。本来払うべき移籍金を選手の年俸に充てられるからである。この時期には、英国からも選手が移籍してきた。名選手アルフレッド・ディ・ステファノを擁するミジョナリオスと、国内外の有力選手が参加する他チームによる新リーグは、当初は盛り上がりを見せるものの、下述するFIFAの措置により、人気下降による運転資金不足に陥る。さらに旧リーグとの引き抜き合戦、隣国アルゼンチンの経済混乱につけ込んだ「クラブ丸ごと引き抜き」工作、代表選出に伴うリーグ間の政争など、健全なサッカー環境とはほど遠いものになった。

FIFAは「南米サッカーの秩序崩壊の引き金になる」として1950年に資格停止、1954年には南米サッカー連盟にコロンビア代表・クラブの排除勧告を出す。1956年にはコロンビアサッカー協会による調停措置により、新リーグが国内を統一するものの、すぐにまた新々リーグが勃興。1959年には新サッカー協会までもが登場し、これにより体制が瓦解した。1960年に南米サッカー連盟よりリベルタドーレス杯定期戦開始に伴う解禁処置を受け、対外試合に復帰するものの、1971年の現コロンビアサッカー協会の大統一まで混乱を続けた。この間、コロンビアは1962年のワールドカップに初出場を果たし、ソビエト連邦と引き分けたものの、ユーゴスラビアに0-5と大敗するなど1分2敗のグループ最下位で大会を終えた。
幻のW杯コロンビア大会

1974年、フランクフルトでのFIFA総会で、コロンビアが1986年のワールドカップ開催地になることが決定した。ところが、同時にFIFA会長に就任したジョアン・アヴェランジェがワールドカップの参加国数拡大を選挙公約として当選した経緯があり、それが1982年のスペイン大会での参加国数の16から24への拡大とつながった。経済状況が良好でなく、かつ大国とは言いがたいコロンビアにとっては、24チームでの開催は国力の限界を超えるものだった。スタジアムで警官が発砲して、銃弾を受けた2人を含む4人が死亡した事件が決定打となった。1982年11月にコロンビアサッカー協会は「開催は不能」という回答をFIFAに送り、翌1983年5月、代替開催地として立候補したアメリカ合衆国カナダメキシコの中からメキシコが選ばれ、かくして1986年のワールドカップはメキシコで開催される形となった。
W杯イタリア大会

こうした中での1980年代、コロンビアサッカーの長き低迷に終止符を打つ稀代のタレントが出現した。カルロス・バルデラマである。チリチリの長金髪という風貌のバルデラマは、フィジカル的にはきわめて平凡ながらも確実なプレイを難なくこなすテクニシャンで、1987年のコッパ・アメリカでは3位進出の原動力となり同年の南米最優秀選手に選出された。ワールドカップ・イタリア大会の予選では、バルデラマやレネ・イギータの活躍もあって、28年ぶりのワールドカップ出場を決めた。本大会ではユーゴスラビア西ドイツと同組という厳しい条件下、1勝1分1敗の成績でグループリーグを突破。決勝トーナメント1回戦ではカメルーンと対戦したが、延長戦の末にイギータのミスなどでカメルーンのロジェ・ミラに2ゴールを決められ大会を去った。
エスコバルの悲劇

1994年ワールドカップ・アメリカ大会・南米予選でコロンビアは快進撃を続けた。バルデラマをはじめ、フレディ・リンコンファウスティーノ・アスプリージャといったタレントを擁し、敵地ブエノスアイレスアルゼンチンに5-0で圧勝するなどの強さで予選を通過。本大会でもペレが優勝候補に挙げるなどダークホースとして注目のチームとなった。

こうして迎えた本大会だったが、初戦ではゲオルゲ・ハジを擁するルーマニアに1-3で敗れた。2戦目の相手は開催国アメリカであったが、この試合でDFのアンドレス・エスコバルが相手のクロスボールの処理を誤りオウンゴールを献上した。そのまま1-2で敗れたコロンビアの1次リーグ敗退が事実上決定した。


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