サチェル・ペイジ
Satchel Paigeサチェル・ペイジ (1933年)
基本情報
国籍 アメリカ合衆国
出身地アラバマ州・モービル
生年月日1906年7月7日
没年月日 (1982-06-08) 1982年6月8日(75歳没)
身長
体重6' 3" =約190.5 cm
180 lb =約81.6 kg
選手情報
投球・打席右投右打
ポジション投手
初出場MLB / 1948年7月9日
最終出場MLB / 1965年9月25日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
チャタヌーガ・ブラックルックアウツ (1926)
バーミングハム・ブラックバロンズ (1927 - 1930)
ボルチモア・ブラックソックス (1930)
クリーブランド・カブス (1931)
ピッツバーグ・クロフォーズ (1931 - 1934)
カンザスシティ・モナークス (1935 - 1936)
ピッツバーグ・クロフォーズ (1937)
ニューアーク・イーグルス (1938)
カンザスシティ・モナークス (1939 - 1940)
ニューヨーク・ブラックヤンキース (1941)
カンザスシティ・モナークス (1941 - 1943)
メンフィス・レッドソックス (1943)
カンザスシティ・モナークス (1944 - 1946)
フィラデルフィア・スターズ (1946)
カンザスシティ・モナークス (1947)
クリーブランド・インディアンス (1948 - 1949)
フィラデルフィア・スターズ (1950)
シカゴ・アメリカンジャイアンツ (1951)
セントルイス・ブラウンズ (1951 - 1953)
カンザスシティ・モナークス (1955)
カンザスシティ・アスレチックス (1965)
アメリカ野球殿堂 殿堂表彰者
選出年1971年
選出方法ニグロリーグ特別委員会選出
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サチェル・ペイジ(Satchel Paige、本名:リロイ・ロバート・ペイジ(Leroy Robert "Satchel" Paige)、1906年7月7日 - 1982年6月8日)は、アメリカ合衆国アラバマ州モービル出身のプロ野球選手(投手)。右投げ右打ち。
野球の歴史上最高の投手のひとり。ニグロリーグにおけるカリスマ性は、メジャーリーグのベーブ・ルースと並び称される[1]。 1906年、アラバマ州モービルのスラム・サウスベイで庭師の父と内職を営む母との間に、12人兄弟の7番目として生まれた。貧しい家庭に育った。 「サチェル」というのはニックネームで、その由来は諸説あるが、少年時代に荷物運びで長い棒に複数の荷物をかけて持ち運ぶという仕事をしていたため、友人から「歩くサッチェル・ツリー(ショルダーバッグをぶら下げておくハンガーのこと)」と言われていたからという説が最も有力であり、それ以来この名前で通したという。 ニグロリーグ時代には約2500試合に登板、2000勝以上をあげ、うち完封勝利は350以上、ノーヒットノーラン55試合など、にわかには信じがたい成績が伝えられている。一説にはこれは中南米の野球チームとの交流戦などをすべて含めた数字ではないかとも言われているが、それを差し引いても傑出した名投手だったのは確かであると言える。上手、横手、下手どこからでも投げ分けることが出来、投球練習の際、ホームベース上に置いた煙草の箱の上をボールが通過するほどコントロールに優れていたという。 球速の計測記録は残っていないが、160km/hを投げていた速球王ボブ・フェラーが「サチェルの投げるボールがファストボールなら、俺の投げるボールはチェンジ・アップだよ」と発言している。フェラーの速球を見た全ての関係者が170km/hを超えていたと証言している事から、極めて速い球を投げていたと推測される。ペイジとノーラン・ライアン両者の球を受けた捕手は179km/h位ではないかとコメントしている。 記録が不確かで伝説の域を出ないが、全打者三振になりそうな試合で、最後の打者が振り逃げで28連続三振になった、9回裏にわざと走者をためて無死満塁にし、しかも野手を全員ベンチへ引き上げさせて打者に勝負を挑んだなどの逸話がある。それ以外にも「今から9人連続三振を取る」と宣言して達成したり、野手全員をマウンドの周りに座らせて投げるなどショーマンシップにも長けていた。 1930年には、メジャーリーグ選抜との交流戦で22奪三振完封勝利を記録している。しかし、ベーブ・ルースとの対戦の機会は無く、晩年になっても残念がっていたという。ただし、ベンチからペイジの投球を見ていたベーブ・ルースの顔が青ざめていったとの証言が複数残っている。なお、「記録がはっきりしている1934年は105試合で104勝を挙げている」と言われることがあるが、この年のペイジの公式戦成績については主にニグロ・リーグの強豪ピッツバーグ・クロフォーズに所属し、独立リーグのキューバン・ホース・オブ・デイヴィッドでの成績と合わせ13勝2敗という記録が残っている[2]。 1947年、ブルックリン・ドジャースがジャッキー・ロビンソンと契約してメジャーリーグの「カラーライン」が破られた時、ペイジは40歳に達していた。「待っても待っても、そんな日は永久にやって来ないんだと思っていた、その日は突然訪れた。だが、それは私にではなかった」と語っている。しかし翌1948年、シーズン途中にクリーブランド・インディアンスに入団し、42歳の史上最高齢新人投手として6勝(1敗、防御率2.48)をあげ、リーグ優勝に貢献した。 メジャー通算成績は28勝31敗、防御率3.29だが1952年には46歳で12勝(10敗)を挙げており、1952年・1953年には連続してMLBオールスターゲームにも出場している。 1965年、カンザスシティ・アスレチックスと1試合だけの契約を結び、メジャー最後の登板を果たした(先発して3回を投げ無失点で勝敗はつかず)。この時ペイジの年齢は59歳だった。しかし生年に異説もあり、実際には60歳を超えていたのではないかとの説もある。いずれにしても現在でも最高齢登板記録なのは事実である。この時はダグアウトにペイジ専用のロッキンチェアが用意され、ペイジがマウンドを去ると観客から惜しみない拍手とともに「私を野球に連れてって」の歌声がこだました。 1971年、ニグロリーグ特別委員会選出により、野球殿堂入り。 長らく日本では無名であり、知られる際も「史上最高齢登板投手」として認識されるにとどまっていたが、佐山和夫による伝記「史上最高の投手はだれか」によってその知名度が広まった。また伊良部秀輝は現役引退後のインタビューで、中学生の時にペイジの追悼特番を見て衝撃を受けた事がメジャーリーグを意識するきっかけになったと発言しており、ロッテオリオンズに入団してから最初の6年間はペイジのように投げたいと思っていたという[3]。 投手としての主な球種は1938年頃まではカーブ(時々投げた)。1939年頃からはスローカーブ、チェンジアップ。1950年頃からはカーブ、チェンジオブペース、スクリューボール、フォークボール、スライダー、ナックルボール。投球フォームはオーバーハンド、サイドアーム、サブマリン。「米書 guide to pitchersより」 佐山和夫著 『史上最高の投手はだれか』(潮出版社,1984年)より 1906年7月7日、アラバマ州モービルで生まれる(役所の記載による) 1918年:12歳 おもちゃを盗み教護院へ送られる。 1923年:17歳 教護院を出る。 1924年:17歳 黒人のセミプロチーム「モービル・タイガース」に入団。30勝1敗。(10月11日、カンザスシティにて第1回黒人(カラード)ワールドシリーズ。
経歴
生い立ち
ニグロリーグ時代
メジャーリーグ時代
年度別
出来事・キャリア
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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