サターンI_型ロケット
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サターンI

使用目的有人月飛行計画の準備
製造クライスラー (S-I)
ダグラス (S-IV)
コンベア (S-V) ※実現せず
規格
全高55m
直径6.52m
重量509,660kg
搭載能力
低軌道9,000kg
月軌道2,200kg
履歴
初飛行1961年10月27日
最終飛行1965年7月30日
主な搭載物アポロ司令・機械船(模型)、ペガサス衛星
第一段 (S-I)
エンジンH-1 8基
推力6.7MN(679.5トン
燃焼時間150秒
燃料 / 酸化剤ケロシン / 液体酸素
第二段 (S-IV)
エンジンRL-10 6基
推力400kN(40.77トン)
燃焼時間482秒
燃料 / 酸化剤液体水素 / 液体酸素
第三段 (S-V) ※実現されず
エンジンRL-10 2基
推力133kN(13.59トン)
燃焼時間430秒
燃料 / 酸化剤液体水素 / 液体酸素

サターンI(英語ではサターン・ワンと発音される。日本ではサターン1型(さたーんいちがた)ロケットと呼ばれるのが一般的である)は、アメリカ合衆国が特に地球周回軌道に衛星を乗せることを目的に開発した初めてのロケット(宇宙専用機)である。第一段は、新規に大きなエンジンを開発するのではなく、すでに完成されている小さいロケットエンジンを組み合わせる (clustered) ことによって大推力を発生させていることが特徴である。このクラスター方式は「技術の停滞だ」と批判されたこともあったが、サターンはこの方式が、より手堅くて融通のきくものであることを実証してみせた。

サターンIは、元々は1960年代において全世界を射程圏内に収める軍用ミサイルとなるべきはずのものであったが、実際には10機のみが、より強力な第二段ロケットを搭載したサターンIBが登場するまでの短期間、アメリカ航空宇宙局 (NASA) によって使用されただけだった。
歴史
起源

サターン計画は、アメリカ国防総省から出された「通信その他を目的とした次世代の衛星を軌道に乗せるための、より大きなペイロード(搭載能力)を持つロケットを開発せよ」という要請に応えるための、いくつかの案の中の一つとしてスタートした。この要請書は、当時は非公式の存在だった国防高等研究計画局 (Defense Advanced Research Projects Agency) が作成したもので、具体的には
9,000kgから18,000kgの衛星を地球周回軌道に投入できるか、または

2,700kgから5,400kgの衛星を脱出速度に到達させることができる

能力が求められていた。既存のロケットでは1,400kgの衛星までしか第一宇宙速度に到達させることはできなかったが、新しい強力な上段ロケットを搭載すれば、その能力は4,500kgにまで拡張できる可能性があった。いずれにしても1961年から1962年初頭の段階では、そのような上段ロケットは準備されておらず、いまだ要請に応えられるような状態ではなかった。

そんな中で、当時陸軍弾道ミサイル局 (U.S. Army Ballistic Missile Agency) に在籍していたウェルナー・フォン・ブラウン博士が率いる研究者チームは、1957年4月に国防総省の要請に対する研究を開始した。彼らの計算によると、必要とされる第一段ロケットの推力は、発射時において約6,700kNであった。空軍はすでにその線に沿って研究を開始しており、後にそれはサターンVの一段目に使用されるF-1エンジンとなって実現されることになるが、それでは国防総省が要請した期限にはとても間に合わない。そのためブラウン博士らは、出力を4,500kNにまで落として新型エンジンの実現の可能性を模索した。

もう一つの可能性として、当時すでにロケットダイン社が開発していた、推力36万 - 38万ポンド(163 - 171トン)を発揮するE-1エンジンを4基束ねるという方法(クラスター方式)があった。この方式ならば、新規にエンジンを開発することなく国防総省の要望に応えることができる。燃料タンクも既にあるジュピターIRBMの周囲を8本のレッドストーンSRBMで取り囲むという形にすることで、開発の時間を省略する。こちらの案のほうがより望ましいと考えられたので、1957年12月、ブラウン博士は「ミサイルおよび宇宙機に関する国家統合計画」という題名(単に『スーパー・ジュピター』と呼ばれるほうがよく知られている)で、この方式の概要を国防高等研究計画局に提出した。

この報告に基づき、クラスター方式の第一段の上に、アトラスタイタンIのどちらかの第二段を搭載するなどのいくつかの提案がなされたが、当時はアトラスの生産のほうが最優先事項であり、流用できる機体は少なかったため、弾道ミサイル局はタイタンのほうが望ましいと考えた。

1958年2月に国防高等研究計画局が公的な機関になり、ブラウン博士の提案に対して一点だけ変更の要望が出された。新型ロケットの開発を速やかに実行段階に移らせるために、エンジンは完成後間もないE-1ではなく、信頼性の高い他のものを使用することである。弾道ミサイル局は、E-1エンジン4基の代わりに、ジュピターやソーIRBMに使用されているS-3Dを改良したH-1エンジンを8基搭載することで、この要望に速やかに応えた。この変更により、開発費は600万ドル、期間は2年間縮小できると見積もられた。ブラウン博士は、以前に宇宙計画に使用されたレッドストーンおよびジュピターミサイルを、それぞれジュノー1 (Juno I) およびジュノー2 (Juno II) と命名し、今回の多段式ロケットに関する提案をジュノー3 (Juno III)、ジュノー4 (Juno IV) と呼んでいたので、必然的にH-1エンジンに変更されたものはジュノー5 (Juno V) と呼ばれることになった。最終的に1958年から1963年までの間にかかった開発費は、総額で8億5000万ドル2007年の貨幣価値に換算すると、約56億ドル)にのぼった。
計画の開始

提案の内容に満足した国防高等研究計画局は、計画を実行段階に移すよう指示した。1958年8月15日の日付が記された、14から59番指令書の中では、この計画の目的は以下のように記されている。

「既存のロケットエンジンを組み合わせることにより、約150万ポンド(2,038トン)の推力を持つロケットを開発せよ。


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