サスケハナ川
[Wikipedia|▼Menu]

サスケハナ川
サスケハナ川からハリスバーグのダウンタウンを望む
延長715 km
平均流量1,135 m³/s
流域面積71,225 km²
水源オチゴ湖(英語版)(ニューヨーク州クーパーズタウン
水源の標高360 m
河口・合流先チェサピーク湾メリーランド州ハバディグレイス
流域アメリカ合衆国
テンプレートを表示

サスケハナ川(サスケハナがわ、サスクェハナがわ[1]、Susquehanna River[注 1] [?s?skw??han?, ?s?skw??han?][2])は、アメリカ合衆国北東部を流れる河川。長さは715キロメートルで、東海岸では最も長く、全米でも16番目の長さである。流域はニューヨークペンシルベニアメリーランドの3州にまたがり、その面積は7万1225平方キロメートルである。河岸にはペンシルベニア州の州都ハリスバーグウィルクスバリ、ニューヨーク州ビンガムトンなどの都市が立地している。

サスケハナ川は、上流域では北支流と西支流に分かれているが、通常はニューヨーク州中東部のオチゴ湖(英語版)を水源とし、ペンシルベニア州北東部を流れる北支流のほうが本流として見られている。北支流よりも短い西支流はペンシルベニア州西部、アルトゥーナの西約30キロメートルに位置するカンブリア郡キャロルタウンに端を発し、アルゲイニー台地上の農村地帯からウィリアムズポートの市街地を流れ、同州中央部のノーサンバーランド付近で北支流と合流する。合流した2本の川は刻まれた谷間をジグザグに流れながらアルゲイニー山脈を横切り、ペンシルベニア州南部からメリーランド州北東部へと南下し、チェサピーク湾最奥部の入り江に注ぐ。
流路サスケハナ川の流路と流域

サスケハナ川の北支流はニューヨーク州中東部、クーパーズタウンのオチゴ湖を水源とし、酪農地帯を西南西へ流れてシドニーでアナディラ川と、またビンガムトンのダウンタウンでチェナンゴ川と合流する。州境を超えてすぐ、ペンシルベニア州北部のブラッドフォード郡アセンズ・タウンシップでは、北西から流れてくるチェムング川と合流する。アルゲイニー台地上を流れてスクラントンの南西でラッカワナ川と合流し、流路を南西へ変える。ノーサンバーランドではアルゲイニー台地上、アルゲイニー山脈の北麓を流れてきた西支流と合流する。

北支流と西支流との合流点を過ぎ、1本の本流となるとサスケハナ川は谷を刻みながらアルゲイニー山脈を横切り、南下していく。ブルー山地に刻まれた峡谷を過ぎると、川はその幅を広げ、やがてハリスバーグへと達する。ハリスバーグ付近では川幅は1マイル(約1.6キロメートル)に広がっている。ハリスバーグを過ぎると川はペンシルベニア州南中部を南東へと流れ、スリーマイル島を通り、ボルチモアの北東約50キロメートルで州境を超えてメリーランド州へと入る。サスケハナ川はチェサピーク湾の最奥に立地する都市ハバディグレイスでチェサピーク湾に注ぐ。河口には1827年に設置されたコンコード・ポイント灯台が建っている[3]
地質学的見地

地質学的には、サスケハナ川の形成は極めて古く、アルゲイニー山脈が形成される以前、新生代初期にさかのぼるとされている。ハドソン川デラウェア川ポトマック川と同様、サスケハナ川下流域の平野は中生代には既に形成されていた[4]最終氷期が終わる前には、サスケハナ川は現在よりもはるかに長かった。しかし、更新世の終わり頃にチェサピーク湾の水位が上がり、もとの河口付近は水没してリアス式海岸溺れ谷となったため、サスケハナ川も現在の長さになった。
歴史ウィリアム・ペンとレナペ族との土地交渉の様子が描かれた想像画

サスケハナ川はアメリカ合衆国の歴史において重要な役割を演じてきた。ヨーロッパ人が入植する以前は、流域にはネイティブ・アメリカンサスケハナ族が住んでいた。サスケハナというこの川の名前はサスケハナ族にちなんでつけられた。地元の伝説では、このサスケハナという名はネイティブ・アメリカンの言語で「1マイルの幅、1フィートの深さ」を意味するものであったとされているが、アルゴンキン語族の言葉では単に「泥まみれの流れ」[5]、もしくは「曲がりくねった流れ」[6]という意味であった。

17世紀に入ると、デラウェア川流域を中心に住みついていたレナペ族がサスケハナ川流域をその居住地域の西端としていた。1682年には、ペンシルベニア植民地を創設したウィリアム・ペンがレナペ族と友好関係を結び、白人の入植地を創るためにレナペ族と交渉し、デラウェア川とサスケハナ川の間の土地を購入した。


ジェームズ・クリントンのダムの碑(右は碑に埋め込まれている銘文)

独立戦争中の1779年大陸軍将軍ジェームズ・クリントンの隊はサスケハナ川の源流にダムを築いてオチゴ湖の水位を上昇させた後、ダムを壊して下流数マイルをあふれさせた。その後クリントン隊はサスケハナ川を下り、ティオガでジョン・サリバン将軍がペンシルベニア州イーストンから率いていた隊と合流した。クリントン・サリバンの合同隊は8月29日にニュータウンの戦いロイヤリストとネイティブ・アメリカンの合同軍を破った。後にこの進軍は「サリバン・クリントンの出征」、もしくは「サリバンの遠征」と呼ばれるようになった。

南北戦争中、1863年ゲティスバーグ方面作戦では、北軍の少将ダライアス・コウチがサスケハナ方面軍を指揮し、南軍のロバート・E・リー率いる北バージニア軍がサスケハナ川を渡るのを阻止した。コウチはハリスバーグやライツビルに架かる橋やその近隣の砦に民兵を配置して守らせた。南軍はカンバーランド郡ヨーク郡の数ヶ所でサスケハナ河岸まで近づいたが、やがて6月29日にリーはサスケハナ川から軍を撤退させた。

また、末日聖徒イエス・キリスト教会の信徒にとっては、サスケハナ川は信仰上重要な川である。聖典の1つである「教義と聖約」の第13章によると、ジョセフ・スミス・ジュニアとオリバー・カウドリーは、1829年5月15日にペンシルベニア州ハーモニー付近のサスケハナ河岸で蘇生した洗礼者ヨハネからアロン神権を授かった、とされている[7]。また、「教義と聖約」の第27章12項によると、ジョセフ・スミス・ジュニアとオリバー・カウドリーはアロン神権を授かってから間もなく、やはりサスケハナ河畔で、ペテロヤコブヨハネの3人の使徒からメルキゼデク神権を授かった、とされている[8]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:24 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef