この項目では、1923年から1947年までイギリスに存在した鉄道会社について説明しています。イギリス国鉄民営化後の旅客列車運行会社については「サザン (列車運行会社)」をご覧ください。
ロンドン・アンド・サウス・ウェスタン鉄道
サザン鉄道(サザンてつどう、英語: Southern Railway)は、1923年から1947年まで存在していたイギリスの鉄道会社である。1921年鉄道法で成立した4大鉄道会社の1つであり、ロンドン以南のイギリス海峡、ケント、南部沿岸、南西部方面への路線を有した。 ロンドン・ミッドランド・アンド・スコティッシュ鉄道(LMS鉄道)、ロンドン・アンド・ノース・イースタン鉄道(LNER)、グレート・ウェスタン鉄道(GWR)の各社と並ぶ4大鉄道会社の1つである。路線網はロンドン以南のイングランド南部に集中し、ロンドンの南部から南東部方面は事実上の独占となる一方で、南西方向へはGWRと競合していた。 4大グループと比較して、サザン鉄道は営業範囲が最も狭く、かつ旅客輸送が大半であった。ロンドン周辺の通勤需要が高く、国内位置の人口密度を有する地域に路線を持ち、またロンドン南部は地質的に地下鉄が適さず近郊鉄道が緻密なこともあり、全イギリスの旅客輸送量の4分の1以上をサザン鉄道が占めていた。 サザン鉄道は、広告戦略で特に成功した会社であった。1924年にあまり評判のよくない宣伝をしてしまった後、ジョン・エリオット(John Elliot サザン鉄道を構成した主な会社は以下の通りである。路線長は総計2,186マイル(3,518km)あった。
目次
1 概要
2 歴史
2.1 合併による成立
2.2 電化の推進
2.3 戦時中
2.4 国有化
2.5 民営化後
3 車両
3.1 塗装
4 その他の資産
5 主要路線
6 その他
7 出典
8 外部リンク
概要
歴史
合併による成立
ロンドン・アンド・サウス・ウェスタン鉄道
ロンドン・ブライトン・アンド・サウス・コースト鉄道(LBSCR: London, Brighton and South Coast Railway)、路線延長457.25マイル(736km)
サウス・イースタン・アンド・チャタム鉄道(South Eastern and Chatham Railway)(サウス・イースタン鉄道(South Eastern Railway)とロンドン・チャタム・アンド・ドーバー鉄道(London, Chatham and Dover Railway)の連合)、路線延長637.75マイル(1,026km)、これらの会社は1922年1月1日合併
ワイト島の3つの鉄道、合計の路線延長55.75マイル(90km)
構成会社が借り受けて営業していた各鉄道会社
狭軌のリントン・アンド・バーンステイプル鉄道(Lynton and Barnstaple Railway)、完全な普通鉄道でありライトレールではない。
ベイシングストーク・アンド・アルトン・ライト・レールウェイ(Basingstoke and Alton Light Railway)を含む、いくつかのライトレール、ただしケント・アンド・イースト・サセックス鉄道(Kent and East Sussex Railway)のように合併候補とされながら独立で残った会社もいくつかある
完全なリストは、List of constituent companies of the Southern Railwayを参照。
電化の推進 サザン鉄道のプルマン式急行電車・5BEL型 1933年の近郊路線電化の宣伝ポスター
比較的狭い範囲に輸送密度の高い通勤路線を有するサザン鉄道は、電化を積極的に行った。4大鉄道会社の中でも1路線しか電化路線がなかったグレート・ウェスタン鉄道と比較すれば明白である。
合併前のロンドン地域の一部路線を電化していたLSWRとLBSCRの両社では電化方式が異なり、LBSCRは6,600V交流架空電車線方式(ミッドランド鉄道がランカスター - モアカム(Morecambe)試験線で使ったのと似た方式)、LSWRは直流660Vの第三軌条方式であった。合併後に2つの方式が比較され、LSWRの第三軌条方式に集約された。
ロンドン南部の多くの路線と、ブライトン、イーストボーン、ポーツマスへ向かう長距離路線が電化された。1931年に開始されたこれらの電化は、世界で最初の近代的な本線電化であった。かつてのサウス・イースタン・アンド・チャタム鉄道の区間については、近郊区間のみがサザン鉄道によって電化された。続いてケントへの長距離路線、更にサウサンプトン・ボーンマス路線も電化が計画されたが、第二次世界大戦によって中断し、実際の電化はそれぞれ1950年代後半と1960年代前半のことであった。当初は電車のみが使用されていたが、後に電気機関車と電気・ディーゼル両用機関車が開発されている。 第二次世界大戦中は、サザン鉄道の営業範囲は前線となった。戦前は旅客75%、貨物25%の輸送量であったが、戦争勃発後は貨物列車の輸送量が6倍と大幅増加し、旅客輸送量は横ばいながら割合は旅客は40%に下がり、貨物は60%を占めるまでになった。 貨物輸送用の機関車が大幅に不足したため、主任技師(CME: Chied Mechanical Engineer)のオリバー・ブレイド(Oliver Bulleid 戦争で疲弊したサザン鉄道は、他のイギリスの鉄道網と共に1948年に国有化された全国規模で統括するイギリス国鉄となり、サザン鉄道の区間は主に南部局の管轄となった。戦争でロンドンとケントの多くの路線が被災し、車両も多くが被災するか修理を要する状態であった。国有化の時点で、サザン鉄道は大規模な修復・更新を行っている状況であった。 サザンの名は、サウス・セントラルのブランド見直しにより2004年に「サザン」(Southern)として復活した。かつてのLBSCRのルートでヴィクトリア駅とロンドン・ブリッジ駅から南ロンドン、サリー、サセックス方面へ運行している。 サザン鉄道の蒸気機関車は基本的に入換機は黒一色だったが、貨物機と貨客両用機は黒地に緑の帯を巻いていた(貨物機に帯があるのは四大私鉄中ここのみ)。旅客機は緑地に黄色の帯を巻いていたが地の緑は時代によって違い、1937年まではオリーブグリーン、それ以後はやや明るいマラカイトグリーンになった。客車はこの前後ともにオリーブグリーンであった[1]。 内装はしばしばサンシャイン・イエローが採用された。駅はグリーンとクリームで塗装された。イギリス国鉄サザン・リージョンでもグリーンは主要塗装として使われたが、いくらか地味な色合いとなった。
戦時中
国有化
民営化後「サザン (列車運行会社)」も参照
車両
塗装