サキャ派(チベット語: ????????、sa skya pa)は、チベット仏教4大宗派の一つ。時として赤帽をかぶることから、ニンマ派・カギュ派とともに西欧人に[1]赤帽派と呼ばれている宗派の一つでもあり、古くは「花派」と表記されたこともある。
後期密教の代表的な経典の一つである「喜金剛タントラ」(ヘーヴァジュラ・タントラ)を依経として、初発心と行道とが覚りの境地に等しいと説く「ラムデー
(英語版)」(道果:どうか)を最奥義とする密教の教義、大成就法が他の宗派と異なる。無上瑜伽タントラの主要な五タントラを体系化した「五大金剛法」を取り入れ、顕教と密教の双方を重んじている。サキャ派は中央チベットのツァンに栄えたコン族(クンとも書かれる)による宗派である。コン氏の伝承によると、コン氏の祖先は神の子であった。吐蕃時代のティソン・デツェン王の頃から歴史に登場し、コン・ペルポチェは大臣を務めている[2]。また、インドからの渡来僧シャーンタラクシタに得度を受けた[2]ルイ・ワンポはチベット最初期の僧の一人とされる。
後にサキャ派の開祖となるコンチョク・ギェンメB(dKon-mchog rgyal-po) (1034年 - 1102年) は、在家の行者であった[3]。コンチョク・ギェンポは、当初はチベット古来からの仏教であるニンマ派の教えを受けたが、規律の緩みはじめていたニンマ派の教えに飽き足らず、兄のシェーラプ・ツルティムに命じられてドクミ ('brog mi) の門下となった。ドクミはインドから来た高僧ガヤダラ
の弟子で、インドのヴィクラマシーラ寺 (en:Vikramashila University) で数年学んだ学者・翻訳家である。ドクミはサンスクリット文字の原典をチベット語に翻訳した『カーラチャクラ(時輪)タントラ』をコンチョク・ギェンポに授け、これがサキャ派の教義の基盤になった[4]。コンチョク・ギェンポは1073年、チベット南部のシガツェにあるポンボ山 (dPon po ri) ポンポリの白い土地を吉祥と見て寺を建てた[5]。そのため、コンチョク・ギェンポの始めた教義は「白い土地」を意味する「サキャ」と名づけられた。また、この寺が後のサキャ寺である。
サキャ寺院を開いたのはコンチョク・ギェンポであるが、サキャ派の初代座主はコンチョク・ギェンポの兄のシェーラプ・ツルティムとされ、コンチョク・ギェンポは2代目座主と呼ばれている[5]。 初期に座主を務めたコンチョク・ギェンポ、サチェン・クンガ・ニンポ、ソナム・ツェモの3人は親、子、孫の関係で[6]、「白い3人」と呼ばれる。チベットでは赤は出家者の色、白は在家者の色とされ、「白い3人」は在家者であることを意味している[3]。サチェン・クンガ・ニンポ 3代目座主でサチェン・クンガ・ニンポ
白い3人と赤い2人
4代目座主のソナム・ツェモ (en:Sonam Tsemo) (1142年 - 1182年) は、分量としてはサチェン・クンガ・ニンポの著書の6倍ほどの分量がある『密教概論』を補記する書を作った。ソナム・ツェモはチベットの論理学者チャパ・チューキセンゲ (Phya pa chos kyi seng ge, 1109年 - 1169年) の下で7年間学んだこともあり、サチェンよりも顕教的素養が大きい[3]。
5代目・6代目の2人は「赤い2人」と呼ばれる。5代目座主はジェツン・タクパ・ギェンツェン (en:Jetsun Dragpa Gyaltsen) (1147年 - 1216年)、6代目座主はサキャ・パンディタ (1182年 - 1251年) である。
サキャ派とモンゴルサキャ・パンディタ
6代目座主のサキャ・パンディタはチベット、インド、ネパールなど各地を遊学して顕教、密教両学と医学、占術、芸術をマスターし、別解脱戒・菩薩戒・サマヤの戒律問題の規範を示した『三律儀分別』という著書がある。数多くの重要なスートラ(経典)とタントラを編んだことで知られ、とりわけ『学者入門』『三律儀分別』『サキャ格言』が有名である。
1240年、モンゴル帝国の第2代カアンのオゴデイの子のコデンはチベットを攻略し、カダム派(英語版)の寺院を焼き、僧侶を殺した。一方、サキャ・パンディタの名声は遠くモンゴルにまで聞こえており、コデンはサキャ・パンディタに面会を要求した[7]。
1244年、サキャ・パンディタは2人の甥のパクパとチャクナ (1239年 - 1267年) を連れ、コデンと青海湖の付近で面会した。この時にコデンがサキャ・パンディタを見込んだ理由は不明であるが、コデンを看病して死から救った、中国人の魔術師をやりこめた、などの伝記が残っている。1249年、コデンはサキャ・パンディタに、ラサやサキャのあるウー・ツァン地域に対する政治権限を与えた。これは、中央チベットにおけるコン氏の政治力が強かったことも物語っている[7]。 1260年、クビライがモンゴル帝国の第5代カアンに即位した。クビライのもとにいたパクパは1260年に帝師に任命され、大元ウルスにおける仏教に関する全権を任された。1264年にはパクパのために最高統制院が作られた。また、パクパにアムド、カム、ウー・ツァンに対する政治的、宗教的権威を委ねた[7]。 以後のモンゴルとチベットの関係を、単純に西欧的な意味での「宗主国・属国」という関係で見ることはできない。クビライは手紙の中でパクパに「私はあなたの保護者であり、ブッダの教えを広めることはあなたの務めである」と語っている。これはあくまでも個人と個人の関係である。皇帝は政治的な保護の権力を行使し、帝師はチベットだけでなく中国を含む全モンゴルに宗教的な影響を与えている。これ以後も1911年の辛亥革命まで、中国とチベットの関係は概ねこのようであった。チベットから見ればチベットの守護者観音菩薩と中国皇帝文殊菩薩は同格である。しかし中国から見れば中国皇帝と同格ということは定義上ありえず、両者の関係はチベットからみるか中国から見るかで大きく異なる[8]。 マルコ・ポーロはクビライを補佐するチベット人(おそらくサキャ派の僧)について報告しており「チベット人は魔術を使い、大ハーンが飲みたいときには杯がひとりでに持ち上がり、空中を移動して彼の許にやってくる。彼らはもっとも危険な降霊術師、魔術師の人種である」と述べている[7]。 1268年には、サキャ寺が創建された。防御が考えられ、サキャ派の教義を取り入れた建物になっている[9]。 1270年、パクパはクビライに請われてモンゴル語を記述するためのパスパ文字を作っている。また、パクパの弟のチャクナはコデンの家系の王女を娶っている[7]。 クビライは1288年に宣政院を設立し、サキャ派の長の帝師がここで指導し、チベットを支配することになった。パクパが1280年に死んでからも75年ほど、サキャ派はサキャ寺院を僧院都市として、モンゴル帝国が衰退するまで中央チベットを支配した。また、チベット全域に対しても大きな権限を持った[7]。 モンゴルはチベットを13地域に分け、それぞれの領主を万戸長(ティポン)に任命して支配していた(チベット十三万戸)が、1285年にラサ北東100kmほどの位置にあるディグンの万戸長が「上手のホル(恐らくカイドゥ・ウルス)」と結んで反乱を起こした(ディクン派の乱)。最初は勝ち進んだが、1290年にはテムル・ブカ率いるモンゴル軍の協力を得たサキャ派の軍隊に破れ、本山ディクン・ティルを焼き討ちされている[10]。
クビライの即位とサキャ派時代