サオ族
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サオ族杵音
総人口
約829人(2021年4月時点)[1]
居住地域
台湾南投県日月潭や水里郷の雨社山)
言語
サオ語台湾語国語日本語
宗教
祖霊崇拝
関連する民族
ツォウ族

サオ族(サオぞく、邵族)は、台湾原住民の一つ、サオ語自称はThauで、人間という意味もある。また、清朝の文献にも漢字で思猫丹、水沙連思麻丹社など記載され、Shwatanという自称もまだ祭祀の言葉の中にある。

清朝時代、政府は台湾の原住民族を統治と漢化の観点から大まかに2つに区分していた。清朝の統治を受け入れ法律が適用され、労働と納税の義務を果たし、漢民族した民族は「熟蕃」と呼ばれ、統治を受け入れず古来よりの文化を守る民族は「生蕃」と呼ばれた。一方、清朝に服属こそしないが納税する民族は「帰化生蕃」(化蕃)と呼ばれた。文献によれば、水沙連二十四社として記載されたサオ族は化蕃に属している。沙連というのはサオ語の水、sazumが音読で翻訳され、漢字の「水」と組み合わせ、水沙連という部落名/地名になった。

現在、主に南投県日月潭(サオ語:Zintun)に分布し、人口は800人ほどである。伝承によれば、白鹿を追って阿里山を越え南投に移住したと伝わる。以前はツォウ族の支族と見做されていたが、文化人類学的に差異が認められ、2001年内政部より独立した原住民族として認可された。
居住部落1904年に撮影されたサオ族

漢民族が台湾に渡来する以前より、サオ族は日月潭周辺の土地で生活を営んでいた。湖畔はサオ族ゆかりの土地である「伝統領域」であった。しかし、外来政権と衝突を繰り返し、現在は主に2つの集落しかない。

伊達邵(サオ語:Ita Thau/Baraubaw):サオ語でitaは私たち、Thauは人という意味である。また、地方行政で日月村とも呼ばれる。伊達邵遊客中心(伊達邵ビジターセンター)は観光客が集まるスポットである。

清王朝時代の文献ではサオ語の地名Baraubawを卜吉社、剥骨社、福骨社などと音訳で記録しており、漢民族は台湾語の発音、北窟(pak-khut)と呼んだ。

日本統治時代に水力発電所の建設工事に伴いサオ族の居住地域が水没し、元住民らは新たに化蕃社(当時の集落名)を築いた。

戦後、中国国民党政権によって徳化社と改名された。だが「徳行教育を受けさせ、品格や思想や行為などを感化させる」という、伝統文化に対する偏見の意味あいがあったため、台湾民主化と共に「伊達邵」とさらに改名された。今もサオ族の最大の居住地である。

雨社山(サオ語:Tuapinaa wa Thau):南投県水里郷頂?村にあり、サオ族の集落である。大坪(平)林とも呼ばれる。漢民族の流入のため、日本統治時代に一部のサオ族は頭社(サオ語:Shtafari)から、こちらに移住してきた。数十年前、先生媽(女祭司)が他界してから、サオ族の伝統な祭事や言語などは伝承されていないようである。
居留地土地問題

満清統治時代、大陸から多数の漢民族系が渡来し、暴力的、あるいは詐欺まがいの契約でサオ族の土地を取り上げた。さらに漢民族系移民が持ち込んだ伝染病がサオ族の人口減少をもたらした。

日本統治時代、サオ族は日月潭の周辺一帯に広く散在し、いくつかの集落を営んでいたが、漢民族系が入り込むにつれ混住状態となった。そこで、サオ族を主に石印社(サオ語:Taringquan)に集中的に居住させた。昭和9年(1934年)、日月潭では水力発電の目的でダムが築かれ、水位が上がり、石印社などの集落が水没した。日本統治当局によりサオ族は移住を強いられ、現在の集落日月村(旧名卜吉社、徳化社。サオ語:Baraubaw)が成立した。なお、日本統治当局はサオ族にサオ語でArumiqanという耕作地を配給、そして、Baraubawはサオ族の保留居住地、ここで漢民族系移住は厳しく制限された。サオ族は伝統生活を維持しながら、台湾原住民のパフォーマンスで観光名所を経営し始めた。

戦後、漢民族系は再びこの辺に戻ってきた上に、中国国民党政権の中央及び地方政府は、こぞってサオ族保留居住地を再開発し、観光事業計画を行った。開発に伴い、旅行客相手の商売を目的とした人たちが大挙して押し寄せるようになり、土地争いが絶えなかった。もはやサオ族のみで集落を営むことが難しくなり、大半が観光収益を狙う漢民族系で占められた町で住むようになってしまった。

民国72年(1983年)、日月村は土地区画整理が行われ、当時の中国国民党所属・南投県県長(知事)呉敦義は「再開発のおかげでサオ族一世帯は一戸建ての洋式屋敷を貰い、街も綺麗になった」と宣言する一方、「日月村サオ族居住地は公有地不法占拠である。法律によりサオ族は土地賃貸を支払い、もしくは土地を購入しなければいけない。さもなくば追放される」と発言。翌年、国有財産局に15年分の土地使用料を追納した。一般的なサオ族世帯にとっては高額であり、自分所有の土地範囲を譲渡せざるを得なかった。その上「賃貸料金を立て替えてもいい」との名目でサオ族らに接近し、所有権移転登記を誤魔化し、土地をだまし取る詐欺事件も発生した。たとえ使用料を納めても、土地を買い取ったわけではないので、再開発された土地所有することはできず、土地使用権しかない。

資金調達に窮したサオ族女性はやむを得ず歌舞団を結成し、出稼労働者として何回も日本で巡回公演を行った。

民国75年(1986年)土地区画整理書公告。資金が足りないサオ族世帯は、自分の住所と土地を守れず、政府からわずかな建物解体補助金しか貰えなかった。翌年、土地区画整理工事が開始され、サオ族はまたも離散してしまった。

Arumiqanという耕作地について、民国62年(1973年)、中国国民党所属南投県県長(知事)林洋港はサオ族の就職促進のため、最後の水田として耕作されているArumiqanで山地文化センターの建設を発表、そして土地収用を行った。しかし補償額が少なく、他の耕作地が購入できなかった。民国64年(1975年)山地文化センターは竣工した。しかし、サオ族は一人も山地文化センターで演出してもらわなかったという。

サオ族は漢民族化に同化し、ほとんど共通語として台湾語を話し、母語を使う機会は失われた。土地を奪われ、祭事場や農耕地や狩猟場もない、生活様式でも観光業に影響を与えられ、先生媽は観光客が絶えず訪れる商店街で祭儀を行わざるを得ない。民国88年(1999年)、921台湾中部大震災が発生。震災後、サオ族は倒壊した山地文化センターの建物の再建に反対し、土地を取り戻す請求をした。苦労奔走して、ようやくここで仮設住宅として、Ita Thau(サオ語で「私たちはサオ族」)というサオ族単一民族の居住区が生まれた。

民国57年(1968年)、南投県政府は日月潭の東側でクジャク園を開設。その場所はは頭人家族袁氏の先祖供養祭場であるが、当時、袁氏長老は他の場所を探さず、不変更という主張を堅持していたので、ずっとFilhaw(サオ語地名)で先祖供養を行っている。民国105年(2016年)に閉園となった、BOT( Build-operate-transfer )方式で、観光ホテル開発を手掛ける。ここはサオ族の伝統領域、それに伝統祭儀開催地ながら、事前にサオ族は事態が全く知らない状態に置かれる。環境アセスメントもまだ行われているので、訴訟が続いている。

現在、サオ族はなおも政府やリゾートホテル業者など戦い、母語や伝統を守りながら、生存権や土地所有権や伝統領域回復に励んでいる。
サオ族七大氏姓

サオ族七大氏姓
サオ語苗字漢語苗字始祖神霊世襲役割苗字漢字由来
Lhkashnawanan袁Amashiqashiqa Shmuan頭人氏族wanは台湾語発音苗字袁(Uan)との同音による作字。
Lhkatafatu石Amatia Muri Pari Pur頭人氏族fatuはサオ語で石である。
Lhkapamumu毛Amatia Muri Pari Pur祓い・清めの儀式執行氏族muは台湾語発音苗字毛(Moo)と似ている。
Shapiz白(筆)Amatia Muri Pari Pur頭社や大坪林から転居で、世襲役割なしpizは筆の台湾語発音、pitと似ている。白の意義不明。
Lhkatanamarutaw高Matiprup Matunuq祝歌指導者、音頭取りと抜歯儀礼執行氏族marutawはサオ語でいである。
Lhkahihian陳Tiflhiti Tilain Pishtaynu祝歌指導者、音頭取りと抜歯儀礼執行氏族台湾語で響はhiangと発音、銅(tang)と苗字の陳(Tan)は台湾語で発音類似。銅製品はよく響くので、陳と作字。
Tanakyuwan丹(朱)Tiflhiti Tilain Pishtaynu頭社や大坪林から転居で、世襲役割なしtanは丹の台湾語発音tanとの同音による作字。丹も朱も漢語で赤いという意味。

※謝姓は陳姓または石姓に所属する。
文化

サオ族は台湾原住民のなかで人口が少ない民族である。古来より日月潭畔を拠点に、祭事・工芸美食・歌舞といった伝統の文化を守ってきた。伝統音楽としては、大小ので石板を打って音階を象る杵音儀式(サオ語:mashtatun)が有名である。

祖靈籃(サオ語:ulalaluan):また台湾語で公媽籃(kong-ma-na)とも呼ばれ、祭祀対象は歴代の先祖である。台湾ではサオ族のみに伝承される特有の供養風習であるため、サオ族か否かは家庭内で祖靈籃祭祀伝統を営んでいるかが判断方法である。籐と竹で「丸い口または四角形の口」と「四つの足」を持った籠を編み、中に先祖代々の伝統衣装と装身具を納める。これはサオ族の祖霊信仰重要の核心であり、博物館であってもサオ族の伝統衣装を展示、収蔵することができない。

先生媽(サオ語:Shinshii/台湾語:sin-senn-ma):女性の祭司。先生媽は借用語として、日本語の「先生」と台湾語で年配の女性「媽」から借用、さらに組み合わせて転用し、サオ語の中で用いた。純粋なサオ語でもShinshiiで発音する。(大文字S:先生媽、小文字s:教師)

祖霊に選ばれ、終身担任、儀式行いや祝詞(のりと)を唱え、祖霊とのコミュニケーションを専門に担当し、周囲から尊敬される立場である。

担任条件は

1.既婚者。

2.Lus'an 祖靈祭に主祭者(サオ語:pariqaz)を担任したことがある。

3.夫が健在。

4.尊敬される品格がある。

現役の先生媽はほとんど高齢者であり、後継者不足が深刻な問題である。サオ族出身ではなくても、サオ族と結婚している女性も担任できるが、サオ族母語を理解し、祝詞が暗唱できる後継者を探すのは、簡単ではなさそうである。選出方法

minshinshiiという儀式について、先生媽候補者は、現役の先生媽から評価され、推薦を受けることから始まる。まず、現役の先生媽が先生媽候補者を聖地とされる日月潭中の拉魯(ラル)島(サオ語:Lalu、最高祖霊Pathalarが宿る居住地)へ連れていく。拉魯島へと向かう船の中では皆わざと大声でをし、島への来訪を最高祖霊に知らせる。島に上陸してから、候補者の顔と上半身を織物のショール一枚で覆い、アカギ(アカギの側にある岩)に向かってしゃがむ。先生媽たちは候補者を囲み、葉を持ち、候補者の頭、肩、背中を撫でながら、サオ語で祖霊と会話をし、コミュニケーションで最高祖霊の指示を図る。儀式を行い、交渉している間に、鳥や昆虫が飛んだり、魚が跳ねるなど生き物の動き、特に、水面に浮かぶ泡や風で湖面に立つ波で神意を読み。祖霊の了解を得たと判断する。帰路では祖霊を一緒に帰宅させるため、また大声で咳をして導く。新たな先生媽が被ったショールは家に帰ってから脱ぐ。

先輩の先生媽はまた門前の地上で豚の内臓、頭、尻尾、豚足を生のまま、まな板に組み立てて供え、丸一匹の豚のように象徴し、また供え物の上に包丁一本を置き、豚の口を自宅の出入り口に向かわせる。新人の先生媽家庭所有の祖霊籃も持ち出され、供え物の豚の前に置き、先輩は新人の後に座り、改めて祈?する。

祖霊に受け入れられた新人は、この夜に家の客間でドアを開けたまま就寝する。その間に拉魯島から一緒に帰宅してきた祖霊は、新人の夢枕に立ち、心構えを言い聞かせる。こうして正式な先生媽として認可され、祭事を執行することになる。

サオ族の社会では次代の先生媽の候補者探しが行われていたが、2017年に日本東京大学考古学博士出身、当年51歳の郭素秋氏が新人の先生媽として承認された。郭先生はサオ族男性と結婚し、常に伝統衣装を着ている先生媽の祖霊が会ってきたことを夢に見ているそうで、そしてサオ族の伝統文化を守るため、先生媽の責任を受け入れたという。

minshinshii当日、水面の波紋と泡の判読の妨げにならないよう、日月潭管理処は暫時観覧船の航行を禁止する。認定儀式が順調に執り行われ、サオ族全員も喜んで新人の先生媽を迎えた。

  先生媽のジェスチャー

祝詞を唱えている時は、熟慮を示すため、手で頬杖をする。

儀式中、時折、手を前へ差し伸ばし、どの家族の祖霊籃を指し、どの家族の先祖を名指しながら、先祖をこの世に誘い、供え物を召し上がって、どうぞという祭文を唱える。

拉魯島(サオ語:Lalu):サオ族の聖域空間。laluという単語も語幹として、mulalu= 動詞、祭るやulalaluan= 名詞、祖靈籃などなり、活用される。


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