サウード家
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サウード家
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王朝
1950年に制定されたサウジアラビアの国章
国 サウジアラビア
主家バヌー・ハニーファ一門
創設1744年
家祖ムハンマド・イブン=サウード
現当主サルマーン・ビン・アブドゥルアズィーズ

サウード家(آل سعود‎ Āl Saʿūd、英語: House of Saud)は、サウジアラビア王家
名称

サウジアラビアの英語名に含まれる Saudi、アラビア語名に含まれる السعودية‎ al-Suʿūdīya は、いずれも「サウード家の」という意味である。
歴史詳細は「en:Unification of Saudi Arabia」を参照
第一次サウード王国

元来、サウード家はアラブ人イスラム教スンナ派のアニザ族(英語版)に属するアラビア半島中部のディルイーヤの支配者だった。18世紀中頃、ムハンマド・イブン=サウード(在位: 1744年 - 1765年)がイスラームの純化を唱えるムハンマド・イブン=アブドゥルワッハーブと盟約を結んで、ワッハーブ主義の保護者となる代わりにワッハーブ派勢力の世俗支配者としての正統性を認められて、勢力を拡大した。ムハンマドの興した第一次サウード王国は、マッカ(メッカ)とマディーナ(メディナ)の二聖都を征服。19世紀初頭までにアラビア半島の大部分を支配するまでに成長した。
オスマン・サウジ戦争

オスマン・サウジ戦争1811年 - 1818年)ではワッハーブ主義の拡大を恐れたオスマン帝国オスマン帝国領エジプトムハンマド・アリー朝)太守ムハンマド・アリーの派遣した討伐軍により首都ディルイーヤが攻略され、崩壊した。
第二次サウード王国

その後、トゥルキー・ビン・アブドゥッラー(英語版)がリヤドに移って1824年第二次サウード王国を復興したが、ナジュド中南部の小勢力に留まり、Royal Civil Warとも呼ばれる1891年1月24日のen:Battle of Mulaydaではナジュド北部の支配者ラシード家(英語版)によって首都を奪われた。アブドゥッラフマーン・ビン・ファイサル・アール=サウード(英語版)はクウェートに亡命し、ジャバル・シャンマル王国がナジュドを支配した。
ナジュド及びハッサ王国

1902年のリヤドの戦い(英語版)に至ってアブドゥルアズィーズ・イブン=サウードがリヤドを奪還し、サウード王国を復興した(ナジュド及びハッサ王国)。その後、en:Battle of Dilamとサウード・ラシード戦争(英語版)(en:Battle of Unaizah (1904)、en:Battle of Bekeriyah (1904)、en:Battle of Shinanah (1904)、en:Battle of Rawdat Muhanna (1906)、en:Battle of Tarafiyah (1907))が続いた。

第一次世界大戦(1914年?1918年)でオスマン帝国はドイツ帝国などからなる中央同盟国の一つとして参戦。イギリスなどと戦い、中東各地で戦乱が起きた(中東戦域 (第一次世界大戦) )。

サウード家が関連する第一次世界大戦期および終戦直後の戦闘としては、en:Battle of Jarrab(1915年)、en:Al-Khurma dispute(1918年 - 1919年)、クウェート・ナジュド国境戦争(英語版)(1919年 - 1920年)がある。
ナジュド・スルタン国

1921年にはラシード家を滅ぼしてナジュド・スルタン国が成立した(en:Conquest of Ha'il)。en:Ikhwan raids on Transjordan(1922年 - 1924年)。
ナジュド及びヒジャーズ王国

ヒジャーズからハーシム家フサインヒジャーズ王国勢力を駆逐し(en:Saudi conquest of Hejaz)、1926年には現サウジアラビアの版図を征服(ナジュド及びヒジャーズ王国)。en:Ikhwan Revolt(1927年 - 1930年)。en:Ikhwan raid on Busayya、en:Battle of Sabilla、en:Battle of Jabal Shammar (1929)。
サウジアラビア詳細は「アブドゥルアズィーズ・イブン・サウード#家族」を参照


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