サウロマタイ(古代ギリシア語: Σαυρομ?ται)は、紀元前7世紀から紀元前4世紀にかけて南ウラル地域にいた遊牧騎馬民族。紀元前4世紀以後は東方から移動してきたサルマタイに吸収され、同化していったと思われる。
歴史
起源アマゾーンの女性戦士像。(ドイツ ハノーファー ヴァイデンダム公園)
古代ギリシアの歴史家ヘロドトスは『ヒストリアイ(歴史)』において次のように記している。
ギリシア人は女性戦士集団アマゾン族と戦ったとき、テルモドン河畔の戦いで勝利を収め、その捕虜を船に乗せてギリシアへ帰ろうとした。ところが船中でアマゾンが反乱を起こし、ギリシア人を一人残らず殺してしまったため、船は漂流し、黒海北岸のアゾフ海沿岸に漂着した。そこはスキタイの領地であったため、アマゾンはスキタイと戦うことになった。スキタイの方では新来者が何者であるかわからなかったが、それが女性たちであることを知ると、戦いをやめてアマゾンと同じくらいの人数の若者たちを選んで彼女たちに差し向けた。若者たちは適当な距離を保って敵意のないことを示し、徐々にアマゾンに近づいて行った。あるとき一人のアマゾンが用便をしているところに一人のスキタイの若者が近寄っていくと、彼女は拒まずに彼のなすがままになった。お互いに言葉はわからなかったが、身振り手振りで意思を通わせ、翌日仲間を連れてくることを約束した。こうして両グループは次第に親しくなり、遂に一緒に生活するようになった。そのうちアマゾンの方がスキタイの言葉を理解するようになり、会話も可能になった。アマゾンたちはすでにスキタイと戦って殺してもいるので、スキタイの中に入ることを拒み、一緒に東方に逃げることを望んだ。若者たちもそれに同意し、タナイス河(ドン川)を渡って東方に移住した。このアマゾンとスキタイの若者の子孫がサウロマタイになったという。
[1] アケメネス朝のダレイオス1世(在位:前522年 - 前486年)はボスポラス海峡を渡ってトラキア人を征服すると、続いて北のスキタイ人を征服するべく、イストロス河[2]を渡った。これを聞いたスキタイが周辺諸族に協力を要請したため、サウロマタイはスキタイに協力して西南から攻め寄せるペルシア軍と戦うことにした。この時、サウロマタイはスキタイ王の一人であるスコパシス サウロマタイの女性は祖先の伝統を受け継いで男性と同じ服装で馬に乗り、狩猟をして戦場に出かける。また、娘は敵の男子を一人殺さぬうちは嫁に行かない。そのため、中には一人も殺せず、嫁に行かないまま老いていく者もいた。[1] サウロマタイの住居は荷車と一体であるので、古代のギリシア人は同じ習俗を持つアガテュルソイとともに彼等を「ハマクシビオイ(車上暮らし族)」とも呼んだ。[3] サウロマタイはスキタイ語を用いるが、昔から訛りがあり、ヘロドトスは「アマゾンたちが正確にスキタイ語を覚えなかったため」としている。[1] サウロマタイの居住地はタナイス河(ドン川)を渡り、マイオティス湖(アゾフ海)の奥隅から北へ15日の行程範囲に住むとされ、現在のロシア連邦・ヴォルゴグラード州周辺だと思われる。この地は木が一本もなく、草原地帯であった。[1] 紀元前7世紀から紀元前4世紀、西部カザフスタンからウラル地方南部、ヴォルガ川下流域、北カフカス、ドン川下流左岸に至る広い範囲でスキタイ文化と類似するサウロマタイ文化が分布した。サウロマタイ文化の起源については明らかではないが、土着のヌル文化 サウロマタイの遺跡はスキタイ同様にほとんどが埋葬址(古墳)である。文化的中心地はヴォルガ川下流のヴォルゴグラードからサラトフにかけての地域とウラル川中流左岸支流のイレク川 紀元前7世紀から紀元前6世紀に編年される早期のサウロマタイの墓では、被葬者は方形の竪穴墓に仰臥伸展葬(足を軽く曲げている場合もあり)、北西あるいは西を枕にして葬られていた。ベレジュノフカ(Berezhnovka)第1古墳群6号墳4号墓やボアロ(ボロダエフカ、Boaro、Borodaevka)村D24号墳6号墓では墓壙が丸太で覆われ上から火が放たれていた。
ダレイオス1世のスキタイ征伐
習俗
生活
言語
居住地
考古学によるサウロマタイ文化