この項目では、1934年の戦争について説明しています。イエメン内戦に対するサウジアラビアの介入については「2015年イエメン内戦」をご覧ください。
サウジ・イエメン戦争
時1934年
場所サウジアラビア・イエメン
結果サウジアラビアの勝利
ターイフ条約の締結
サウジアラビアが全ての係争地域を獲得
衝突した勢力
サウジアラビア イエメン王国
指揮官
アブドゥルアズィーズ・イブン・サウードヤヒヤー・ムハンマド・ハミードゥッディーン
被害者数
兵士・民間人合わせて2100人が死亡[1]
サウジ・イエメン戦争(アラビア語: ????? ???????? ???????)は、1934年にサウジアラビアとイエメン王国の間で発生した戦争である。 1922年、オスマン帝国が滅亡した。当時イブン・サウードはナジュドの王であった。 1923年、アシール首長国
オスマン帝国滅亡?アシール戦争
1925年、サウード王はハーシム家からヒジャーズ王国を獲得した。
1926年、サウード王はナジュド王国にヒジャーズ王国を併合し、ナジュド及びヒジャーズ王国を建国した。アシールの王がサウード王の家臣に降った。
1930年、アシール首長国はナジュド及びヒジャーズ王国に併合された。サウード王は大イエメン(英語版)(現在のイエメン+アル・バハー(英語版)・アシール・ジーザーン・ナジュラーン)を圧迫し始めた。ジーザーンはイエメンの北の紅海沿岸地域、アシールとアル・バハーはイエメンの北の山岳地帯、ナジュラーンはイエメン北東の内陸地域である。アシールとジーザーンは1920年代にはアシール首長国の領土だった。ジーザーンとアブ・アリシュ(英語版)を統治するイドリッシ藩王がサウード王への忠誠を取り消してイエメンに避難し、イエメン王であるヤフヤ・ムハンマド・ハミド・エド・ディンに加わった事で、ナジュド及びヒジャーズ王国とイエメン王国の間にアシール紛争が発生した。
1931年12月に停戦条約が結ばれたが、すぐに破綻した。
1932年、サウード王はナジュド及びヒジャーズ王国を廃し、サウジアラビア王国を建国した。当時、殆どの国境は未画定だった[3]。サウード王は「現代のソロモン」、[4]「砂漠のクロムウェル」、「アラビアのナポレオン」、[5]「アラビアのビスマルク」と呼ばれた[6]。この時点で、サウード王はイエメンとイギリスの保護領(オマーン・クウェート・バーレーン・アデン等)を除く殆ど全てのアラビアを支配していた。
1933年11月、イエメン王国がナジュラーンを獲得した[7]。ヤフヤ王はイドリッシ王に兵を与え、アシールに帰還させた。 1934年2月、戦争が再開すると、イエメン政府とイギリス領アデンの代表が友好条約を締結した。この条約ではイエメンとアデンの国境が画定され、イギリスはイエメンの独立を40年間保障する事が決まった。これを受けて、イエメンはアデンへの攻撃を中止した[8]。イギリスは同時にサウジとも友好条約を締結していた[9]。 1934年3月、サウード王は皇太子(後のサウード1世)に、「イエメン王国が包囲しているティハーマを奪い返す」よう命じた[10]。ティハーマはジッダの南の紅海東岸地域で、ヒジャーズ・アシール・イエメンの境界だった。「サウード王は合意を得る為にあらゆる外交手段を用いたが、イエメン王国のイマームは住民を抑圧し、降伏しない者を「根絶」する事に固執している」と公式声明が出された[11]。 5月、サウジ軍は沿岸地域に進軍し、フダイダを占領した。サウジの部族がフダイダのインド洋貿易を脅かしたが、イギリス海兵がそれを排除し秩序を維持した[12]。
サヌア条約
開戦