サイモン・ニューカム
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Simon Newcombサイモン・ニューカム
サイモン・ニューカム(1905年ごろ)
生誕 (1835-03-12) 1835年3月12日
カナダ ノバスコシア州ウォレス(英語版)
死没1909年7月11日(1909-07-11)(74歳)
アメリカ合衆国 ワシントンD.C.
市民権 アメリカ合衆国
国籍 カナダ
研究分野天文学
数学
出身校ハーバード大学 (BSc, 1858)
指導教員ベンジャミン・パース
博士課程
指導学生ヘンリー・ラッドウェル・ムーア(英語版)
主な受賞歴コプリ・メダル (1890)
ブルース・メダル (1898)
配偶者Mary Caroline Hassler (m. 1863)
子供アニータ・ニューカム・マギー(英語版)など4人
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サイモン・ニューカム(Simon Newcomb、1835年3月12日 - 1909年7月11日)は、カナダ系アメリカ人天文学者応用数学者である。アメリカ海軍ジョンズ・ホプキンス大学数学教授を務めた[1]

彼は従来の学校教育はほとんど受けていなかったが、計時、および経済学統計学などの応用数学の分野において重要な貢献をしたほか、SF小説の執筆を行った。
生涯
若年期

サイモン・ニューカムは、カナダノバスコシア州ウォレス(英語版)で生まれた。父は学校の教師ジョン・バートン・ニューカム、母はニューブランズウィック州の判事の娘エミリー・プリンスだった。父はノバスコシア州とプリンスエドワードアイランド州を中心としてカナダの様々な地域で教職を転々としていた。カナダ連合の父であるウィリアム・スティーブズ(英語版)は母方の親戚である。

ニューカムは、父からの教育と、1851年にニューブランズウィック州の薬草療法(英語版)師のフォシェイのもとで短期間徒弟となっていたくらいで、通常の学校教育をほとんど受けていないようである。しかし、彼が父から受けた教育は、彼の将来の研究のための重要な基礎となった。ニューカムがフォシェイに弟子入りしたのは彼が16歳の時だった。5年の見習い期間で薬草療法の修行をするという契約だった。しかし、その2年後、ニューカムはフォシェイの非科学的なやり方に不満と幻滅を感じるようになり、彼がペテン師であることに気付いた。彼は契約を破棄してフォシェイのもとから離れることを決意した。彼はメイン州カレスの港まで190キロ歩き、船の船長にお願いして、先に渡米していた父が住んでいるマサチューセッツ州セイラムまで連れて行ってもらった。1854年ごろにセーラムで父と合流し、二人は一緒にメリーランド州に移り住んだ。

ニューカムは、1854年から1856年までの2年間、メリーランド州ケント郡のマッシーズ・クロス・ローズの学校で、その後、メリーランド州クイーンアンズ郡のサドラーズビル(英語版)近郊の学校で1年間教師となった。彼は余暇を利用して、政治経済や宗教などの様々な分野の研究をしたが、特に数学や天文学について深く研究した。当時彼はニュートンの『プリンキピア』を読んでいた。1856年、ワシントンD.C.近郊で家庭教師の職を得て、彼は数学を勉強するためにワシントンD.C.各地の図書館を巡った。彼はスミソニアン協会の図書館から、ナサニエル・バウディッチ(英語版)が翻訳したラプラスの"Traite de mecanique celeste(天体力学論)を借りることができたが、そこで使われている数学は、彼の手に負えないものであった[2]

ニューカムは数学物理学を独学し、教職に就いた後、1857年にマサチューセッツ州ケンブリッジ航海年鑑局計算手になった。ほぼ同時期にハーバード大学のローレンス科学スクール(理工学専攻)に入学し、1858年に理学の学士号を取得した[2]
パース家

ニューカムはベンジャミン・パースに数学を学び、あまりお金を持っていないニューカムはしばしばパースの家に招かれていた[3]。しかし、後にベンジャミンの息子であるチャールズ・サンダース・パースに嫌悪感を抱くようになったと言われており、ニューカムはチャールズのキャリアを「見事に台無しにした」と非難されている[4]。特に、ジョンズ・ホプキンス大学学長のダニエル・コイト・ギルマン(英語版)は、チャールズにテニュア(終身雇用資格)を与えようとしていたが、ニューカムが裏で介入してそれを阻止したとされている[5]。約20年後、ニューカムは、チャールズのライフワークを出版する最後のチャンスを阻止するために、アンドリュー・カーネギー自身、セオドア・ルーズベルトウィリアム・ジェームズなどからのチャールズに対する推薦の手紙があったにもかかわらず、カーネギー研究所の評議会にカーネギー助成金のチャールズへの支給を拒否するよう影響を与えたとされている[6]
天文学における業績

南北戦争の前兆として、アメリカ連合国(南軍)を支持した多くの米海軍軍人が退役したことにより、1861年、ニューカムは空席となったアメリカ海軍天文台の数学・天文学の教授に就任した。ニューカムは天文航法に使用するための惑星の位置の観測に取り組み、惑星運動の理論に興味を持つようになった[2]

1870年にニューカムがパリを訪問した時、ペーター・ハンゼンが計算した月計算表(月の位置の表)の誤りに気付いた。彼はパリで、ハンゼンが使用した1750年から1838年までのデータに加えて、1672年まで遡ったデータがあることに気付いた。しかし、彼がパリを訪れたのは、普仏戦争でフランス皇帝ナポレオン3世が敗北し、フランス第二帝政を終わらせることになるクーデターが起こった時期で、パリでゆっくり分析している時間はなかった。ニューカムは、パリ・コミューンの結成とパリ天文台も巻き込まれた暴動の中をなんとか脱出した。ニューカムは新しいデータを使ってハンゼンの表を修正した[2]

彼は1875年にハーバード大学天文台台長のポストを提示されたが、彼の興味が天体観測よりも数学に移っていたことから、それを辞退した[2]
航海年鑑局長

1877年に航海年鑑局長に就任し、ジョージ・ウィリアム・ヒルの支援を受けて、全ての主要な天文定数を再計算する計画に着手した。1884年からはジョンズ・ホプキンス大学の数学と天文学の教授を兼任し、多くの求められる仕事を抱える中で、彼はアーサー・マシュー・ウェルド・ダウニング(英語版)と共に、この問題に関する多くの国際的な混乱を解決するための計画を考案した。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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