サイエンスコミュニケーション
[Wikipedia|▼Menu]
ユニバーシティ・カレッジ・ロンドンにおけるアウトリーチ活動。

サイエンス・コミュニケーション(: science communication)とは、パブリック・コミュニケーションの一種で、非専門家に対して科学的なトピックを伝えることを指す。科学コミュニケーション、科学技術コミュニケーションとも呼ばれる。多くは職業的な科学者が主体となる(アウトリーチ活動や科学普及活動と呼ばれる)が、現在ではそれ自体が一つの職業分野となっている。サイエンス・コミュニケーションの形としては、科学博覧会、科学ジャーナリズム、科学政策(英語版)、メディア制作などがある。また学術雑誌などを通した科学者同士のコミュニケーションや、科学者と非専門家の間のコミュニケーションを指すこともある。後者は特に、科学を巡る公の討論や市民科学活動の中で見られる。日本のサイエンス・コミュニケーションについては、さまざまな団体が活動を行っている。

科学研究科学教育への支援を呼び込むために行われる場合もあれば、政治的・倫理的な問題に関する意思決定のための情報を周知させるのが目的の場合もある。近年では、単純に科学的な研究成果を伝えるより、科学の方法や過程を伝えることを重視する傾向が強くなってきている。これが特に重要となるのは、科学的方法の制約を受けないことから容易に流布する科学的俗説に対処するときである[1][2][3][4]

サイエンス・コミュニケーションについての考え方は時代とともに変遷を経てきた。科学者同士が研究について公に交流することをサイエンス・コミュニケーションに含めるならば、その源流は17世紀のイギリスで最初の科学学会王立協会)が成立したことに求められる[5]。科学者コミュニティが公衆に科学を伝える動きの先鞭をつけたのは、1831年に創設された英国科学振興協会である[6]。社会や経済における科学技術の役割が拡大するとともに、一般市民を対象とした理解増進活動の重要性は不動のものとなった。しかし、20世紀の後半から、核技術やBSE問題遺伝子組み換え食品問題などをきっかけに一般市民の科学に対する不信が顕在化され始め、トップダウン的な知識の伝達の有効性に疑問が寄せられるようになった。現在では、多様なステークホルダーによる科学への関与や双方向的な対話を基本理念として、コンセンサス会議サイエンスカフェのような新たな形式のサイエンス・コミュニケーションが実施されている[7]
動機

職業訓練の需要が存在することもあって、サイエンス・コミュニケーションは一つの学問分野となっている。専門学術誌には Public Understanding of Science や Science Communication がある。研究者の多くは科学技術社会論に依拠しているが、科学史や一般的なメディア研究心理学社会学が入り口となることも多い。学問分野としての成長を受けて、応用的・理論的なサイエンス・コミュニケーション研究を専門に行う学部を設立した大学もある。その一例はウィスコンシン大学マディソン校ライフサイエンス・コミュニケーション学部である。サイエンス・コミュニケーションの分野には、農業従事者とそれ以外が学問的・職業的な観点から農業について交流する農業コミュニケーション(英語版)や、ヘルス・コミュニケーション(英語版)などがある。

ジェフリー・トーマスとジョン・デュラントは1987年の著書で科学の公衆理解(英語版)[8]、すなわち科学リテラシーを向上させるよう訴え、様々な根拠を提示した。公衆が今以上に科学を享受するようになれば、科学研究費の水準が向上し、法規制がより進歩的になり、訓練された科学者の人材が増加するとされた。また、訓練された技術者や科学者が増えることで経済的な国家競争力が強められる可能性があるという[1]。科学は個人にとっても有益となりうる。科学そのものが魅力を持つこともあり、たとえばポピュラーサイエンスサイエンスフィクションではその側面が利用される。高度技術化が進む中、社会的な問題について話し合うのに基礎的な科学知識は役に立つかもしれない。幸福感についての科学は個人にとって直接的に明確な意義を持つ科学研究の例である[1]。政府や社会も科学リテラシーの向上から恩恵を受ける可能性がある。有権者の見識は社会の民主化を推進する原動力である[1]。それに加え、道徳的な問題について意思決定を行うのに必要な知識が科学から得られることがある(たとえば動物は苦痛を感じるか(英語版)、人間活動が気候変動に与える影響、さらには道徳の科学(英語版)といった問題に関する疑問に答えてくれる)。

バーナード・コーエンは科学リテラシー増進の理念にいくつかの懸念を投げかけた。コーエンは第一に「科学の偶像化」を避けよと説く。言い換えると、科学教育で必要なのは、公衆が科学を尊重しつつも科学が絶対に正しいと盲信しないようにすることである。結局のところ科学者は人間であり、完全に利他的なわけでもなく、何もかもを理解できるわけでもない。また、サイエンス・コミュニケーションに携わる者は、科学を理解していることと、科学的な思考法を身につけてほかの局面でも応用できることとの違いを正しく認めるべきである。実のところ、訓練された科学者といえども、科学的な考え方を人生の中で応用することに必ず成功するわけではない。コーエンは科学主義と呼ばれてきた考え方に対して批判的である。つまり、科学があらゆる問題に対する最善の(あるいは唯一の)対処法だとするべきではない。また、様々な天体までの距離や鉱物の名前といった「雑多な情報」を教えることを批判し、その有用性に疑いを投げかけている。ほとんどの科学知識は、公の議論の対象となって政策転換につながるのでなければ、学習者の人生に実質的な変化をもたらすことはないだろう[1]

科学の公衆理解という観点に基づく学術研究に対しては、科学技術社会論の研究者から多くの批判が寄せられている。たとえば、スティーヴン・ヒルガートナーが1990年に論じたところによれば[2]、科学の普及についての(彼がいう)「支配的な見解」の中では、正確な知識を備えた集団とそれ以外との間に明瞭な境界があると考えられがちである。公衆を知識が欠如した集団と定義することで、科学者たちは専門家としての自己認識を際立たせることになる。科学の普及活動は境界作業(英語版)[† 1]の一つの形となる。このように理解するならば、科学者と非科学者との間で行われる科学コミュニケーションという営みそのものが、この図式を強調することにしかならない。あたかも、科学コミュニティが一般人に手を差し伸べるのは、そのもっとも強固な境界を強化するためでしかないかのようである(M・ブッチやB・ウィンの著作に基づく[9][10])。このように、一般市民に知識が欠如していることを問題視して、トップダウン的な啓発活動を行おうとする考え方は批判的に「欠如モデル」と呼ばれるようになった[6]

生物学者ランディ・オルソンは別の観点から科学の公衆理解に関する危惧を表した。反科学的な集団は強い動機を持ち資金が潤沢であることが多いため、政治的中立を志向する学術団体は後れを取る可能性があるというのである。オルソンはこの懸念を裏付ける例として否認論(英語版)(たとえば地球温暖化に対するもの)を挙げている[3]。ジャーナリストのロバート・クラルウィッチも同様に、科学者が情報を発信すると、否応なくAdnan Oktar(トルコの宗教指導者、イスラム創造論者)のような人物との競争にさらされると論じた。クラルウィッチが伝えるところによれば、トルコには世俗主義の強い伝統があるにもかかわらず、Oktarの活動により、おもしろくて読みやすく価格も低い創造論の教科書が数千校にのぼる学校で販売されているという[4]宇宙生物学者デイヴィッド・モリソン(英語版)は、反科学に対処するために研究に支障が出たことが何度かあったと発言している。未知の天体(ニビル)が地球と接近して大災害(ニビル大災害(英語版))をもたらすという風説による社会不安を和らげるよう要請されたのだという。これは2008年に始まり、2012年、2017年と繰り返された[11]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:108 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef