ゴールズワージー・ロウズ・ディキンソン
Goldsworthy Lowes Dickinson
ロジャー・フライの描いた1893年のディキンソン
生誕 (1862-08-06) 1862年8月6日
イギリス
イングランド ロンドン
死没 (1932-08-03) 1932年8月3日(69歳没)
イギリス
イングランド
研究分野政治学、哲学
研究機関ケンブリッジ大学キングス・カレッジ
プロジェクト:人物伝
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ゴールズワージー・ロウズ・ディキンソン (Goldsworthy Lowes Dickinson, 1862年8月6日 - 1932年8月3日) はゴールディとして知られる[1]、イギリスの政治学者、哲学者[2]。彼は生涯のほとんどをケンブリッジ大学で過ごし、そこでフェローとなる前に新プラトン主義に関する論文を書いた。彼はブルームズベリ―・グループと密接な関係にあった。
ディキンソンは第一次世界大戦にイギリスが参戦したことに強い危機感を抱いていた。戦争が始まって2週間以内に彼は国際連盟の構想を練り上げ、その後の彼の論考は連盟創設に向けた世論形成に役立った。国際関係論の分野でディキンソンは、国際システムが国際的「アナーキー」であるという概念を広めたことで有名である[3]。 ディキンソンはロンドンで、肖像画家ロウズ・カトー・ディキンソン
生涯父親の描いた1869年のディキンソン
青少年時代
彼は10歳か11歳のころには地元の学校へ通ったが、12歳になるとチャートシーにある全寮制の寄宿学校へはいった。14歳から19歳までは兄のアーサーが先に入っていた、ゴダルマイングにあるチャーターハウス・スクールに入学した。彼は俳優がやってきて演じた劇を観劇したり学校オーケストラでヴァイオリンを弾いたりしたが、学校生活は憂鬱だった。在学中に家族はハンウェルからロンドンのオールソウルズ教会の裏手に引っ越した。
1881年にディキンソンは、兄のアーサーがやはり先に入っていたケンブリッジ大学キングス・カレッジに奨学生として入学した。1年次の終わりごろ彼は母親が気管支喘息で亡くなったという電報を受け取った。大学ではチューターのオスカー・ブラウニング(英語版)の影響を強く受け、また学部の同級生チャールズ・ロバート・アシュビーと親しくなった。ディキンソンは1884年にジロラモ・サヴォナローラを題材にした詩で学長賞を受賞し、その夏に古典学コースの最優秀学位を取得して卒業した[4]。
オランダとドイツを旅行した後、ディキンソンはその年の終わりにケンブリッジに戻り、ケンブリッジ使徒会として知られるケンブリッジ社交クラブの会員に選ばれた。1、2年後にはロジャー・フライ、ジョン・マクタガート、そしてナタニエル・ウェッド(英語版)が参加しているサークルのメンバーになった。
業績11 Edwardes Square, London W8, ディキンソンのロンドンの家ブルー・ブラーク (史跡案内板)
1885年の夏、彼はサリー州ファーナム近くのティルフォード村にある協同組合農場のクレイグ農場で働いた。農場はシンプルな生活の実験としてハロルド・コックス(英語版)が開いたものだった。ディキンソンは鍬入れ、掘り起こし、耕筰に習熟した。その秋と続く1886年の春に、ディキンソンは大学公開講座に参加し、トーマス・カーライル、ラルフ・ワルド・エマーソン、ロバート・ブラウニング、そしてアルフレッド・テニスンに関する公開講座で講義した。彼は国内を旅行し、1学期はマンスフィールドで、次の学期はチェスターとサウスポートで過ごした。そのほか短期間ウェールズでも過ごした。
父親から経済的援助を受け、ディキンソンは1886年10月からケンブリッジ大学で医学の勉強を始めた。しかし彼はこの新しい分野に失望し、まもなく辞めることを決めたが、1887年と1888年の学位試験には合格した。最終的に彼は医学に興味が持てなかったのである。
1887年3月にプロティノスに関する論文で、彼はキングス・カレッジのフェロー選考試験に通ることができた。ロジャー・フライがケンブリッジで過ごした最後の年 (1887-1888)、同性愛者のディキンソン[5]は彼との恋に落ちた。初期の熱烈な関係 (ディキンソンの伝記によるとそれは異性愛者フライとの性的関係は含んでいない) の後、二人は長期間にわたる友情で結ばれた。フライを通じてディキンソンは、まもなくジョン・マクタガートおよびF.C.S. シラー(英語版)と知り合った。
ディキンソンはケンブリッジに居を構えたが、大学公開講座での講義は続け、ニューカッスル、レスター、そしてノッリッジを旅行した。彼のキングス・カレッジでの歴史学者としての研究職は、1896年に恒久的なものに更新された。その年に彼の著書『ギリシャ人の人生観 (The Greek View of Life)』が出版された。彼は後にソクラテスの伝統に則った対話集を著している。
ディキンソンは典型的なケンブリッジの教授のような没個性的生活は送らなかった。G・K・チェスタトンは同時代の思想家について1905年に著した『Heretics』(邦訳『異端者の群れ』[6]) の中で、第12章を「異教思想とロウズ・ディキンソン氏」に当てている。そこでチェスタトンは次のように書いている。
ロウズ・ディキンソン氏は、この分野での現代の作家のうち最も豊穣で挑発的であり、異教思想がアナーキーであるという古い過ちに陥るにはあまりに堅実な人物である。単なる食欲とエゴイズムを理想とするヘレニズムへの熱狂を利用するためには、多くの哲学について知る必要はなく、ギリシャ語を少し知ればよい。ロウズ・ディキンソン氏は哲学について造詣が深く、またギリシャ語も堪能である。彼の間違いは、間違いがあるとすればだが、それは粗野な快楽主義者の間違いではない。しかし道徳の理想の問題で、キリスト教と異教思想との間に示された対比についての彼の主張は、『Independent Review』誌に寄稿した「How Long Halt Ye?」という記事で彼は丁寧に説いているが、深い種類の間違いを含んでいると私は思う。
ディキンソンは1886年から1920年に引退するまで政治学を講義し、1893年から1896年までは大学図書館員でもあった。彼は経済学と政治学のトライポス制度の確立に尽力し、大学で政治学を講じた。15年間に渡り彼はロンドン・スクール・オブ・エコノミクスでも講義した[7]。
1897年に彼は初めてギリシャを旅行したが、同行者はナタニエル・ウェッド、ロビン・メイヤー、そしてA.M. ダニエルであった。
彼は心霊現象研究協会に1890年に参加し、1904年から1920年まで同会の理事を務めた。
1903年に『Independent Review』[8]誌の創刊に協力した。編集者はエドワード・ジェンクス(英語版)で、編集委員はディキンソン、F.W. ハースト(英語版)、チャールズ・マスターマン(英語版)、ジョージ・マコーリー・トレヴェリアン、そしてナタニエル・ウェッドであった。