ゴーマニズム宣言
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『ゴーマニズム宣言』(ゴーマニズムせんげん)は、小林よしのりの主張を伴った日本漫画作品。通称『ゴー宣』[1]
概要

これまではギャグおよびコミカル的漫画のスタイル採っていた小林にとって、そのスタイルを180度転換し、エッセイ的・風刺的・時事漫画的な内容として書き上げたことが話題となった。

元々、宝島で連載していた読書の怒りを代りに小林が起こるという体で連載された『おこっちゃまくん』がベースとなり、始まった。「ゴーマニズム」とは傲慢からの作者の造語である。

各回の文末には「ごーまんかましてよかですか?」というキメ台詞と共に、総まとめをするスタイルになっている(初期など一部の回において上記のキメ台詞が無い回もある)。

「ゴーマニズム宣言」は時期が進むにつれ「新・ゴーマニズム宣言」、「ゴー宣・暫」と名前が変遷している。2007年9月から、再び当初の「ゴーマニズム宣言」に戻っている。『SPA!』・『SAPIO』から続き、現在再度『SPA!』に掲載されている通常連載と、『わしズム』内の『ゴーマニズム宣言EXTRA』特別連載、『WiLL』誌での『本家ゴーマニズム宣言』連載、『戦争論』などの論シリーズなど数種類の連載・書き下ろしで発表されている。関連する連載として、『FLASH』における「よしりん辻説法」がある。

連載当初はエッセイ風の漫画として始まった作品で、バラエティな内容に富んだ作品だった。

連載が進むにつれ読者や、知識人との論争など思想本としての色合いが強くなっていき、様々な社会問題政治問題に対し主張を起こし、注目を浴びた。

所謂、風刺漫画および時事漫画の面もある。
『ゴー宣』誕生

連載以前、『月刊宝島』に『おこっちゃまくん』を約2年半連載していた[2]。しかし、読者から反感を買うような内容が多く、編集側もページ末に作品を茶化すようなハシラ書きをしており、良好とは言えない状態が続いていた。これを見た扶桑社の『SPA!』より「ウチでもあんなのをやって欲しい」と執筆依頼を受け、1992年1月22日号より『ゴーマニズム宣言』を開始。当初のエッセイ的漫画から、社会に切り込む思想漫画と変遷し反響を呼んだ。その後、漫画活動の軸足をこれへと移していくこととなる。
皇太子徳仁親王成婚に関する回の掲載拒否

皇太子徳仁親王の結婚とそれを報道するマスコミをギャグにした作品(タイトル:「カバ焼きの日」)は当初『SPA!』誌での掲載を拒否された。このため小林は原稿を『ガロ』(青林堂)に持ち込み[3]、特別篇として1993年9月号に掲載される事となった。その後扶桑社から発行された単行本に収録されている[4]
部落解放同盟との対談

出版業界に対し差別表現を巡って安易で軟弱な姿勢から起こる自主規制に対して批判を加えており、後に部落解放同盟の関係者との対談等につながった。そこから『ゴーマニズム宣言・差別論スペシャル』の題名での書き下ろし本への出版となった。なおこの本の出版にあたっては書き下ろし漫画の表現を巡って小林側と部落解放同盟側と対立する一幕も見られた[5]
オウム真理教・関係知識人との対立

1989年に起きた坂本堤弁護士一家殺害事件では、漫画上で当初は名指しこそしなかったものの、オウム真理教を激しく追及。これに対しオウム真理教側は自らの存在を厳しく批判する小林の存在を恐れ、様々な口実を作って自らの施設へ単独で誘い込もうと図るが小林側の警戒心は強く実現しなかった。遂には山形明らがVXガスによる暗殺を試みる実力行使に出るが失敗に終わる。これは後にオウム真理教への司法の追及が進むうちに発覚した。この事件は当時の新聞等で大きく掲載され話題を呼んだ。しかし小林は、それすら「世界初暗殺されかかった漫画家」とネタにしつつ被害を訴えていた[6]

1995年、『SPA!』誌上でのオウム真理教擁護の動きに対し、師一彦編集長や宅八郎松沢呉一らと対立。オウムへの疑念と警戒を強める小林に対し『SPA!』本誌は宅八郎と上祐史浩とのインタビューを載せるなど雑誌内での両側の意見の乖離が現れていたのが連載を終了することになった原因である。当時の連載内容によると、小林は師と電話で話し「もし師さんの家族がオウムに殺されても、オウムのインタビューを載せるんですか」と聞いたところ、師は「載せる。それがジャーナリズムだ」と答えたという。この一件を契機として、小林は師と決裂した。
『SPA!』での連載終了、移籍へ

小林はマルコポーロ事件の後、この事件を「百四十章 マルコ廃刊からジャーナリズムを考える(扶桑社1995/08/01 ゴーマニズム宣言 第8巻)」で取り上げ、同誌廃刊の切っ掛けとなった記事「戦後世界史最大のタブー『ナチ・ガス室』はなかった』(『マルコポーロ』1995年2月号)の原稿が、小林にも送られていたとして「絶対にお時間を無駄にさせません。最初の3ページだけでもお読み下さい[7]」と、著者が書き添えている資料の写真を掲載し、西岡昌紀を「西岡はたまたま/「反ユダヤオタク」に/はまっちゃった人なのだ」[8] など、激しく批判した。

これに対して西岡は、小林が掲載した資料は、「僕の『マルコ』事件についての記述があります。あれはぜんぜん事実と違うんですね。つまり、『マルコ』の原稿を僕が小林に送ったって話になってますでしょう。(中略)全然別のものなんですよ。僕が別のパンフレットを分前に彼に送ったことがあるんですけど、それが『マルコ』の原稿であったかのように書かれているんですね。」[9] と、小林が掲載したのは、「94年に、パンフレットを作って、随分いろんな人に送ったんですよ。送った一人に、小林よしのりもいたわけですね。それは『マルコ』の原稿とは全然違うものです。」[10] と語り「ナチ『ガス室』はなかった」の原稿ではなく、執筆依頼もしていないと主張。別の文書をマルコポーロの原稿としたのは「捏造」と批判、西岡は抗議文を『教科書が教えない小林よしのり』に発表したが、小林は返答をしていない。

その後、宅が、西岡を「週刊宅八郎」に招いたことが、小林を激昂させ『SPA!』決別の大きな原因になったと師、宅は証言。小林と『SPA!』編集部の対立、決別までを検証する座談会を収録した、『教科書が教えない小林よしのり』で、両者は以下のように語っている。つる師「'95年3月の頭ぐらいに、小林さんが「宅の連載は不快だと伝えてきた。つまり、わしを攻撃してくる「噂真」の岡留の写真を載っけてけしからんとかさ。まず、それが一点で、次がすがさんのカラオケ。「わし」の作品を批判するすがの写真を載っけてカラオケするとは何たることかって。」
(中略)

つる師「3月上旬に「週宅」で西岡さんのインタビューを敢行したわけです。丁度その1号前の号で、小林さんが「ゴー宣」で西岡さんについて描いてたんですよ。編集部に対する3つ目の不満っていうのが、西岡さん問題だったんです。それも、小林さんは『宅は西岡の擁護にまわってる』みたいな書き方をしているけれども、実際ちゃんと読んでみれば宅さんはそんな記事は書いてないよねぇ。」
(中略)

つる師「ところが宅さんがその原稿を発表した後、3月8日になって小林さんが僕に『宅八郎を攻撃する』ということを通達してきたんです。さっきの岡留さんやすがさんなどを扱うこと自体が不快だと。で、もっと不快なのは、わしが西岡に触れた次の号で、宅が西岡にインタビューしていることだ、と。一週間後に西岡インタビューが載るってことは、宅は俺のを見て書いたんだろうって言ってきたわけ。そこまで言ってきたわけ。」
(中略) ? 『教科書が教えない小林よしのり』(ロフト出版、1997年)54?65ページ

小林は、同誌での連載を1995年8月2日号で終了したが、こうした事情も、関係修復は不可能と判断した一因と考えられる。宅はこの頃から小林の圧力があったと主張するが、これに対して小林側は、『SPA!』での連載継続の意思を失ったと表明して間もなく、扶桑社の幹部から「どうすれば慰留して頂けますか?」と暗に宅や師らの更迭を示唆する申し出があったのを敢えて断ったとして否定している。


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