ゴードン・バンクス
名前
本名ゴードン・バンクス
愛称バンクシー (Banksie)
バンク・オブ・グレートブリテン(イングランド銀行)
ラテン文字Gordon Banks
基本情報
国籍 イングランド
生年月日 (1937-12-30) 1937年12月30日
出身地シェフィールド
没年月日 (2019-02-12) 2019年2月12日(81歳没)
身長183cm
体重84kg
選手情報
ポジションGK
利き足右足
代表歴
1963-1972 イングランド73 (0)
監督歴
1979-1980 テルフォード・ユナイテッド
■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj
ゴードン・バンクス OBE(Gordon Banks OBE、1937年12月30日 - 2019年2月12日)は、イギリス(イングランド)・シェフィールド出身の元サッカー選手、サッカー指導者。ポジションはゴールキーパー。元イングランド代表。 1956年、チェスターフィールドに加入した翌年のFAユースカップ決勝に進出するが、ボビー・チャールトン率いるマンチェスター・ユナイテッドの前に敗れた。 1959年、レスター・シティに移籍、1964年にイングランド・リーグカップ優勝を果たした。1971-1972シーズンのフットボールリーグカップで、PK止めなど好セーブを連発して、イングランドリーグ所属チーム中2番目の歴史を持つ、ストークシティFCに初の栄冠を齎した。そしてこの年のFAは(イングランド)年間最優秀選手に彼を選んだ。 1972年10月22日、自動車事故によりフロントガラスの破片が右目に突き刺さり失明、引退を余儀無くされた。この時彼の熱烈なファンが目の提供を申し出るが拒否している。 1975年にアメリカで再起を図るが、怪我をする以前の輝きを取り戻せることはなく、1977年にそのキャリアを終えた。 現役引退後の1979年にはAFCテルフォード・ユナイテッドの監督に就任。 2004年3月にFIFAが100周年を迎えるにあたって、元ブラジル代表・ペレが選出したFIFA 100(偉大なサッカー選手125人)に選出された。 2015年に腎臓がんを患い、闘病中であることが報じられていたが、2019年2月12日、現役時代に所属したレスター・シティやストーク・シティおよび各メディアは、同日にバンクスが死去したことを発表した[1]。 1963年の4月6日にスコットランド戦にて代表デビューを飾った。 1966年のワールドカップ・イングランド大会では、グループリーグから準々決勝のアルゼンチン戦まで無失点に抑える活躍で代表の勝利に貢献。続く準決勝のポルトガル戦後半37分にエウゼビオに得点を許すまで無失点記録(443分)は続いた。同大会を通じて失点を3点に抑え母国開催での優勝に貢献した。 1970年のワールドカップ・メキシコ大会では、同国はベスト8に留まるが、バンクスはサッカー史上に残るプレーを披露している。1次リーグのブラジル戦、序盤から攻勢に出たブラジルだったが、絶好調のバンクスはゴールを阻止した。前半18分、ジャイルジーニョからセンタリングが上がった際、ペレはニアサイドを警戒していたバンクスの裏をかき、逆サイドに走り込んできた。ペレがフリーの状態で無人のゴールにヘディングシュートを叩き込んだかに見えたが、バンクスはこれに反応しゴール寸前でボールを弾き出した[2]。のちにペレはこのプレーを「私が今まで見た中で最高のセーブ」と評している。
経歴
クラブ
イングランド代表1970年メキシコW杯、対ブラジル戦におけるプレー
所属クラブ
チェスターフィールド 1955-1959
レスター・シティ 1959-1966
ストーク・シティ 1966-1972
→ クリーブランド・ストッカーズ
セント・パトリックス 1977
フォートローダーデール 1977-1978
個人タイトル
FWA年間最優秀選手賞:1972年
20世紀世界最優秀GK 2位 (1999年、国際サッカー歴史統計連盟)
20世紀の偉大なサッカー選手100人(ワールド・サッカー誌選定) 32位(GKとしては2位):1999年
イングランドサッカー殿堂:2002年
出典^ “イングランド伝説のGK、ゴードン・バンクスが死去
タイトル・受賞歴
表
話
編
歴
FWA年間最優秀選手賞
1940年代
48: マシューズ
49: ケアリー
1950年代
50: マーサー
51: ジョンストン
52: ライト
53: ロフトハウス
54: フィニー
55: レヴィー
56: トラウトマン
57: フィニー
58: ブランチフラワー
59: オーウェン
1960年代
60: スレイター
61: ブランチフラワー