ゴート族
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ゴート人に福音書を解説するウルフィラ司教

ゴート族(ゴートぞく、ゴート語: ????????、Guttiuda、 : Gothe(または Gote))は、古代ゲルマン系の民族で、東ゲルマン系に分類されるドイツ平原の民族。ゴットランドからウクライナに移動した後、いわゆる「ゲルマン民族の大移動」によってイタリア半島イベリア半島に王国を築いた。ローマ帝国の軍勢と戦い、壊滅的打撃を与えたこともある精強な軍を持った民族である。また、ゲルマン系のなかでは早くからローマ帝国の文化を取り入れて独自のルーン文字を残したほか、ローマ軍に傭兵として雇われるなど、後期のローマ帝国の歴史において大きな役割を担った。
歴史
ゴート族の起源紀元前2世紀から2世紀にかけてのゲルマニア(現ドイツ及びポーランド)一帯。
赤はオクシヴィエ文化と初期ヴィェルバルク文化
肌色はその後のヴィェルバルク文化の拡大
黄色とオレンジはプシェヴォルスク文化
オレンジはヴィエルバルク文化がその地方のプシェヴォルスク文化の影響を強く受けた地域
青は非ゴート系大陸ゲルマン人ヤストルフ文化
水色はヤストルフ文化が拡大した地域
紫はヴィェルバルク文化がその地方のヤストルフ文化の影響を強く受けた地域200年頃のゴート族居住地区(緑部分「チェルニャヒーウ文化」の北部一部地域は「東ゴート族」)。
オレンジはプシェヴォルスク文化を主とする地域。
紫はザルビンツィ文化を主とする地域。
緑はチェルニャヒーウ文化を主とする地域。
ゴート族(Goths)は自らのヴィェルバルク文化をチェルニャヒーウ文化に持ち込んだ。
ゴート族が定住した地域を中心として両文化は混じり合ってキエフ文化(英語版)に発展し、そこのゴート族はもとのヴィスワ東岸に残っていたいわゆる「西ゴート族」とは政治的にも文化的にも異なる「東ゴート族」となった。

550年頃に、アリウス派僧侶のローマ帝国官僚でゴート人についての歴史家でもあったヨルダネスが、東ゴート王国の学者カッシオドルスの著書を要約して著した史書『ゴート人の事跡』(De origine actibusque Getarum)[1]によれば、ゴート族は「スカンディナヴィア島」[注釈 1]を発祥とする民族で、ベーリヒ王(ベーリク)の治世にバルト海を渡り、当時ヴァンダル族(ルギイ族(英語版)、Lugii)が住んでいたゲルマニア(現ドイツ及びポーランド)のヴィスワ川河口域一帯に到達。その土地(現ポーランドのグダニスク一帯の東ポメラニア地方)をゴティスカンツァと呼び、ヴァンダル族の支配地をつぎつぎと平定したと記述されている[3]

ゴート族の起源は19世紀から議論されているが、ヨルダネスの伝えるスカンディナヴィア起原(en:Gothiscandza)は現在では否定的に受け止められている。スカンディナヴィア南部はゴートランド(イェータランド)と呼ばれてはいるが、スカンディナヴィア半島でゴート族と結びつけられる痕跡は、ゲルマニア一帯の住民が遺したストーンサークル(いわゆる「クルガン」)と類似するものがスカンディナヴィアでも発掘されているという程度である。ストーンサークルは、オクシヴィエ文化や初期ヴィェルバルク文化(B1b期・1世紀中期)の墓地では形成されておらず、ゴート族がプシェヴォルスク文化の影響を強く受けるようになった2世紀初期(B2期)から一定期間にのみ認められる。もともとスカンディナヴィアでストーンサークルが発生したというのであれば、オクシヴィエ文化や初期ヴィェルバルク文化の段階から認められなければ矛盾が生じる[4]。また、クラウディオス・プトレマイオスが著した『ゲオグラフィア』(Geographia、地理学)によれば、スカンディナヴィアにゴート族の名称によく似るゴータイ(Goutai)が住むことが確認されるが、『ゲオグラフィア』に記載されている彼らの居留域とストーンサークルの分布は一致しない。このように、スカンディナヴィア起原は考古学的立証が難しく、さらにランゴバルト族のような他のゲルマン系民族にも同じ伝説があることから、単に名前の響きが似た別々の系統の部族だという可能性が高く、ゴート族に関してはスカンディナヴィア起原は疑問視されている。

1世紀末(西暦98年頃)に成立したとされるタキトゥスの『ゲルマニア』には、ヴァンダル族と思われるルギイ族(ルーク族、Lugii)の土地(すなわちプシェヴォルスク文化の領域)より北方にゴート族(ゴートネス)が居留するとの記載が見られ、王制のもとにまとまっていることも知られている[5]。これは南のプシェヴォルスク文化と北のオクシヴィエ文化(および草期ヴィェルバルク文化)の位置関係に合致している[要出典]。ヨルダネスの記述によれば、彼らはガダリックの子、フィリメル王(ベーリッヒ王から数えて5代目の王)の時代にゴティスカンツァを離れ、黒海沿岸部のスキティアにたどりついた[6]。ゴート族のヴィスワ川から黒海一帯への移動については、1945年以降、現ポーランド北部のヴィェルバルク文化と黒海北方のチェルニャヒーウ文化およびキエフ文化(英語版)が発見され、その歴史をある程度追跡できるようになった。これらのどの文化もゴート族だけのものではないが、ゴート族(およびゲピーダエ族)の文化も装飾品の類似性からそこに含まれていると考えられる。特にヴィエルバルク文化とキエフ文化においては政治的にゴート族が主導的立場にあったと考えられている[要出典]。

ヴィェルバルク文化は、ポメラニアからヴィスワ川下流域で1世紀中期にはすでに形成されていた文化で、成立当初は現在のポモージェ県ヴァルミア・マズールィ県西部一帯において見られる。このヴィエルバルク文化は前2世紀ごろ現ポモージェ県で発生したオクシヴィエ文化から発展したもので、このオクシヴィエ文化こそ、この地方の人々がゴート族としてまとまった時代の最初期の文化であると推定される。150年頃、ゲルマニアのヴィスワ川東岸地方では考古学的にこの文化の著しい変化が認められており、ヴィェルバルク文化は元来ヴァンダル族の定住地であったヴィスワ川流域平原のうち、ヴィスワ川東岸一帯を伝って現ポーランド南部に領域を拡大している[要出典]。墓地などの遺跡からは、この東岸地域でゴート族は土地の(プロト・)スラヴ人諸部族を必ずしも排斥せず、武力平定を強調するヨルダネスの記述に反して、両グループは特に争うこともなく混住していたことが明らかになっており、オクシヴィエ文化と東岸プシェヴォルスク文化が融合した結果としてヴィェルバルク文化が形成されたことがうがわれる。これはマルコマンニ戦争においてゴート族とヴァンダル族が同盟していたというローマの記述と一致しており、いっぽうヨルダネスの記述とは矛盾している。

このような動きはその後も1世紀ほど続き、220年頃までには現マゾフシェ県、現ルブリン県、現ポトカルパチェ県一帯と現ウクライナ北部に到達した。この南下に呼応して、ヴァンダル族の文化と考えられるプシェヴォルスク文化も同時期にあたかも競うように南下している。300年頃には両文化とも現ウクライナ南部にまで拡大するが、一方でヴィェルバルク文化のヴィスワ川下流域では出土品の減少から、人口がかなり減少したと考えられ、彼らがポメラニア地方の故地を捨てたことを示している。

この頃、ゴート族によるローマ帝国への最初の攻撃[注釈 2] が知られている。以後、彼らはダキアモエシアに幾度となく侵攻を繰り返し、241年にはマルキアノポリス(英語版)に現れて保証金をせしめることに成功しているが、皇帝フィリップス・アラブスによって撃退された。


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