この項目では、6世紀のゴート戦争について説明しています。4世紀のゴート戦争については「ゴート戦争 (376年?382年)」をご覧ください。
ゴート戦争
ユスティニアヌス1世の再征服戦争中
時535年–554年
場所イタリアとダルマチア
結果東ローマ帝国の勝利
領土の
変化東ローマ帝国によるイタリア、ダルマチア征服
衝突した勢力
東ローマ帝国
東ゴート王国
フランク王国
指揮官
ベリサリウス
ナルセス
テオダハド
ウィティギス
イルディバルド
トーティラ
テーイア
ゴート戦争[1][2][3](ゴートせんそう、伊: Guerra gotica、羅: Bellum Gothicum)は、東ローマ帝国と東ゴート王国の間でイタリア半島とその隣接地域のダルマチア、サルデーニャ、シチリアおよびコルシカにおいて535年から554年まで行われた戦争である。
この戦争は一般に二つの期間に分けられる。第一期(535年–540年)は東ローマ軍の侵攻からベリサリウスによるラヴェンナの占領と東ローマ帝国による一応のイタリア征服で終わり、そして第二期(540年, 541年–554年)はトーティラ王のもとで東ゴート族の抵抗が再起し、長期にわたる苦闘の後にナルセスによって制圧されるまでであり、ナルセスはさらに554年のフランク族とアラマンニ族の侵攻も撃破した。しかしながら、北イタリアの多くの都市が560年代初頭まで抵抗を続けている。
戦争は、前世紀に蛮族の侵入によって失われたかつての西ローマ帝国の属州を回復しようとする東ローマ皇帝ユスティニアヌス1世の野望に端を発している(民族移動時代も参照)[4]。長期間にわたる戦争によってイタリアは荒廃し、戦災と飢餓そして疫病によって人口も激減してしまい[5]、東ローマ帝国の国力も使い果たされた[6]。そのため、東ローマ帝国は568年のランゴバルド族の侵攻に抗することができず、イタリア半島の大部分が失われることになった[7]。
背景「東ゴート王国」および「ユスティニアヌス1世」を参照526年時点のヨーロッパ(イタリア語)
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476年、オドアケルが西ローマ皇帝ロムルス・アウグストゥルスを追放し、東ローマ皇帝ゼノンよりイタリア領主(dux Italiae)として任命されたことで、西ローマ皇帝による西ローマ帝国の支配は終了した。オドアケルはゼノンの宗主権を認めていたものの、彼の独立志向と勢力の増大はコンスタンティノープルの目には脅威と映った。この頃、テオドリック王の東ゴート族は帝国の同盟部族(フォエデラティ)としてバルカン半島西部に定住していたものの、東ローマ帝国領に対する略奪を再開し始めていた[8]。ゼノン帝は「一石を投じて二羽を仕留める」ことを決心し、オドアケルを排除すべく東ゴート族を帝国の代理人としてイタリアに赴かせ、テオドリックの東ゴート族はオドアケルを撃破して、イタリアを支配下においた[8]。しかしながら、テオドリックとゼノン帝そしてその後継者のアナスタシウス1世との協定に従って、領土と住民は依然としてローマ帝国の一部と見なされ、テオドリックは西ローマ帝国の官僚として総督と管区軍司令官(マギステル・ミリトゥム)の役割で満足していた[9]。
この協定はテオドリックによって遵守され、行政は従来のまま継続されてローマ人によって運営され、立法権は皇帝に保持されていた[10]。