ゴート戦争
[Wikipedia|▼Menu]
.mw-parser-output .hatnote{margin:0.5em 0;padding:3px 2em;background-color:transparent;border-bottom:1px solid #a2a9b1;font-size:90%}

この項目では、6世紀のゴート戦争について説明しています。4世紀のゴート戦争については「ゴート戦争 (376年?382年)」をご覧ください。

ゴート戦争
ユスティニアヌス1世の再征服戦争中

535年554年
場所イタリアダルマチア
結果東ローマ帝国の勝利
領土の
変化東ローマ帝国によるイタリア、ダルマチア征服

衝突した勢力
東ローマ帝国

東ゴート王国

フランク王国

指揮官


ベリサリウス

ナルセス


テオダハド

ウィティギス

イルディバルド

トーティラ

テーイア

ゴート戦争[1][2][3](ゴートせんそう、: Guerra gotica、: Bellum Gothicum)は、東ローマ帝国東ゴート王国の間でイタリア半島とその隣接地域のダルマチアサルデーニャシチリアおよびコルシカにおいて535年から554年まで行われた戦争である。

この戦争は一般に二つの期間に分けられる。第一期(535年–540年)は東ローマ軍の侵攻からベリサリウスによるラヴェンナの占領と東ローマ帝国による一応のイタリア征服で終わり、そして第二期(540年, 541年–554年)はトーティラ王のもとで東ゴート族の抵抗が再起し、長期にわたる苦闘の後にナルセスによって制圧されるまでであり、ナルセスはさらに554年フランク族アラマンニ族の侵攻も撃破した。しかしながら、北イタリアの多くの都市が560年代初頭まで抵抗を続けている。

戦争は、前世紀に蛮族の侵入によって失われたかつての西ローマ帝国属州を回復しようとする東ローマ皇帝ユスティニアヌス1世の野望に端を発している(民族移動時代も参照)[4]。長期間にわたる戦争によってイタリアは荒廃し、戦災と飢餓そして疫病によって人口も激減してしまい[5]、東ローマ帝国の国力も使い果たされた[6]。そのため、東ローマ帝国は568年ランゴバルド族の侵攻に抗することができず、イタリア半島の大部分が失われることになった[7]
背景「東ゴート王国」および「ユスティニアヌス1世」を参照526年時点のヨーロッパ(イタリア語)
.mw-parser-output .legend{page-break-inside:avoid;break-inside:avoid-column}.mw-parser-output .legend-color{display:inline-block;min-width:1.5em;height:1.5em;margin:1px 0;text-align:center;border:1px solid black;background-color:transparent;color:black}.mw-parser-output .legend-text{}  東ローマ帝国  フランク王国  ブルグント王国   東ゴート王国  西ゴート王国  ヴァンダル王国 東ゴート王テオドリック

476年オドアケルが西ローマ皇帝ロムルス・アウグストゥルスを追放し、東ローマ皇帝ゼノンよりイタリア領主(dux Italiae)として任命されたことで、西ローマ皇帝による西ローマ帝国の支配は終了した。オドアケルはゼノンの宗主権を認めていたものの、彼の独立志向と勢力の増大はコンスタンティノープルの目には脅威と映った。この頃、テオドリック王東ゴート族は帝国の同盟部族(フォエデラティ)としてバルカン半島西部に定住していたものの、東ローマ帝国領に対する略奪を再開し始めていた[8]。ゼノン帝は「一石を投じて二羽を仕留める」ことを決心し、オドアケルを排除すべく東ゴート族を帝国の代理人としてイタリアに赴かせ、テオドリックの東ゴート族はオドアケルを撃破して、イタリアを支配下においた[8]。しかしながら、テオドリックとゼノン帝そしてその後継者のアナスタシウス1世との協定に従って、領土と住民は依然としてローマ帝国の一部と見なされ、テオドリックは西ローマ帝国の官僚として総督と管区軍司令官(マギステル・ミリトゥム)の役割で満足していた[9]

この協定はテオドリックによって遵守され、行政は従来のまま継続されてローマ人によって運営され、立法権は皇帝に保持されていた[10]。一方で、軍隊は完全に東ゴート族に握られ、彼らは自らの首長たちと宮廷に従っていた[11]。二つの人民は信仰によってさらに別たれており、ローマ人はカトリック両性説)であり、東ゴート族はアリウス派であった。もっとも、ヴァンダル族や初期の西ゴート族と違い、かなりの宗教的寛容が行われていた[12]。この複雑な二元制度はローマ貴族層を疎外することなく自らの政策を実施する術を知る賢明かつ強い指導力を持つテオドリックによって効果的に働いていたが、彼の晩年には崩れ始め、彼の後継者たちの代に完全に瓦解した。

ユスティヌス1世が即位して「アカキオスの分離」 (en) が終わり、教会の統一が回復すると、アリウス派は危機感を持ち、東ローマ帝国やローマ教皇の意図に疑念を持つようになった[13]。ローマ人に対して疑念を持ったテオドリックは524年に宰相 (magister officiorum) ボエティウスを処刑し、これに対し、東ローマはコンスタンティノープルのアリウス派を処刑する[13]東ローマ皇帝ユスティニアヌス1世
ラヴェンナ・サン・ヴィターレ聖堂

526年8月にテオドリックが死去して孫のアタラリックが後を継いだ。アタラリックがまだ幼少であったため、母のアマラスンタ(テオドリックの娘)が摂政の地位に就き、ローマの教育を受けた彼女は元老院および帝国との和解政策を執った[14]。これらの政策そして彼女が息子にローマ風の教育を施していたことは東ゴート族には不評であり、彼らは彼女に対する陰謀を企て始めた[15]。危険を察知したアマラスンタは陰謀の首謀者三名を処刑したが[16]、一方で皇帝に書簡を送り、もしも彼女がイタリアから逃れざる得なくなれば庇護を与えてくれるよう求めている[17]。結局、534年に息子のアタラリックが死去してもアマラスンタは実権を握り続け、彼女は従弟のテオダハドを共同統治者に任命した[18]。これは致命的な誤りとなり、テオダハドは間もなく彼女を逮捕し、535年初めに暗殺してしまった[19]

これより前の533年ユスティニアヌス1世(ユスティヌス1世の甥で後継者)はヴァンダル王国の内紛を利用して北アフリカ諸州を回復すべく最も有能な将軍ベリサリウスを派遣していた。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:124 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef