ゴーディ・ハウ
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ゴーディ・ハウ

生誕
出生地 (1928-03-31) 1928年3月31日
カナダ
サスカチュワン州フローラル
死没2016年6月10日(2016-06-10)(88歳)
アメリカ合衆国
オハイオ州シルバニア(英語版)
身長
体重6 ft 0 in (1.83 m)
205 lb (93 kg; 14 st 9 lb)
ポジションライト・ウィング
シュート両打ち
所属したチームUSHL
 オマハ・ナイツ
NHL
 デトロイト・レッドウィングス
 ハートフォード・ホエーラーズ
WHA
 ヒューストン・エアロズ
 ニューイングランド・ホエーラーズ
IHL
 デトロイト・バイパーズ
代表カナダ
プロ選手期間1946年 – 1971年
1973年?1980年
1997年
1972年殿堂入り

ゴーディ・ハウ(Gordon "Gordie" Howe、1928年3月31日 - 2016年6月10日)は、カナダ連邦サスカチュワン州フローラル生まれのプロアイスホッケー選手。ポジションはライト・ウイング。愛称は"ミスター・ホッケー"("Mr. Hockey")。

NHL及びWHA両リーグに渡って長期間活躍した。3年間の待機期間を待たずしてホッケーの殿堂入りを果すとともに、カナダ勲章を受勲した。
経歴

1946年に当時18歳でNHLデトロイト・レッドウィングスでアイスホッケーのプロ選手としてのデビューを果たした。デビュー直後からその類稀な才能を発揮してポイントゲッターとしての地歩を固めた。また、肉体的にも強靭なものを持ち、過酷なアイスホッケー競技にあっては異例の50年に渡る選手生活を送り活躍を続けた。

スポーツ各界におけるアスリートの誰もが真似をできない偉業として、20年間連続でゴール数上位5位以内の座に座り続けたことが挙げられる。また、ウェイン・グレツキーの登場を見るまでは常にNHLをリードし続け、チャンピオンシップにおける幾多の得点によりハウの支配力が証明されてきた。

ハウは所属のデトロイト・レッドウィングスを4度のスタンレー・カップ優勝に導いた。これらの優勝当時、ライト・ウイングのハウ及び彼と組んだセンターだったシッド・エイベル、左ウイング、テッド・リンジーのラインは、その得点力の高さと自動車産業で有名なフランチャイズのミシガン州デトロイトに引っ掛けて「"プロダクション・ライン"("The Production Line" 、生産ライン)と呼ばれた。レッドウィングスは1950年代から1960年代初頭を通じて、常に優勝争いにからむ有力チームであり続けた(その後、チームは1960年代後半にスランプに陥る。)

入団して25年後にハウは慢性的な手首の怪我によってNHLからの引退を余儀なくされ、一旦はレッドウィングスのフロントに入る。しかしながら、その1年後新設されたWHA (World Hockey Association) のヒューストン・アエロズ (Houston Aeros) から選手契約のオファーを受ける。レッドウィングスのフロントで何ら意義のある活躍の場を見出せないことに満足できないでいたため、選手としての返り咲きを果すために問題の手首の手術を決行。そして見事チームを連続優勝に導いた。1974年には、実に46歳にしてWHAの最優秀選手賞を獲得した。1977年には息子のマーティ・ハウ、マーク・ハウと共にニューイングランド・ホエーラーズに移籍。

1979年にWHAとNHLの合併が決まると、当時51歳のハウはニューイングランド改めハートフォード・ホエーラーズ(後のカロライナ・ハリケーンズ)の選手としてNHLに復帰、リーグ試合数80試合のすべてに出場した。1980年2月5日にジョー・ルイス・アリーナで行われたオールスターゲームにも選出され、最後に紹介されたハウは古巣デトロイトのファンから大歓声で迎えられた。

また、1997年に実に60年に渡ってプロアイスホッケーでプレイを行うという金字塔を打ち立てた。このときハウは、 International Hockey League のデトロイト・バイパーズ (Detroit Vipers) と1試合のみの出場契約を締結し、1回の途中交替によって感動のリンク返り咲きを果した。

ハウの活躍した時代は、得点することが難しく、選手同士の当たりが激しい時代でもあったが、ポイント数1,850(801ゴール、1,049アシスト)はNHL史上でも歴代3位(2005年現在)にランクされる。また、NHLとWHAのレギュラーシーズンを通算してみると、975ゴールは歴代1位(2005年現在)である。なおグレツキーはハウのことをその若かりし選手時代から崇拝しており、後に両者の親交は厚いものになるのであるが、またハウの打ちたてた数多くの得点記録などを塗り替えることになる。

ハウの引退時において、プレイオフを含めてNHL及びWHAを通算してプロアイスホッケー選手としてハウが残した記録は、出場試合数2,421試合、ゴール数1,071、アシスト数1,518及びポイント数2,589など最高のものであった。その後、グレツキーはゴール数1,072、アシスト数2,297、ポイント3,369とハウの記録を更新したが、出場試合数は1,788試合とハウに及ぶことはなかった。また、この後もハウの出場試合数は誰も破ることのできない記録であると一般的に考えられている。マーク・メシエでさえ、その出場試合数1,756はハウのNHLのみの出場数にすら11試合及ばず、ましてやプロ通算2,421試合にははるかに及ばない。

ミスター・ホッケーと呼ばれ英語圏生まれのハウの付けた背番号9は、奇しくもフランス語圏の英雄モーリス・リシャールと同じ背番号であった。この両選手による相乗効果もあって、一般的に背番号9は、NHLにおいても特別な意味を持つ番号と信じる向きが多い。グレツキーが入団した時、すでにスーパースターの地位を確立していたハウに憧れ9番を望んだが、空番でなかったため99番を着用することとなったとされる。なお、当初は17番を着用していたのであるが、小さい番号を付けると遠征時の車両で良い寝台を得られると聞き背番号を変更したというエピソードが残されている。

2016年6月10日死去。享年88[1]
家族

弟のヴィック・ハウもNHLのニューヨーク・レンジャースで3シーズン33試合に出場した[2]


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