ゴルギアス
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この項目では、哲学者・修辞学者について説明しています。プラトンの対話篇については「ゴルギアス (対話篇)」をご覧ください。

ゴルギアス(ゴルギアース、ギリシア語: Γοργ?α?, Gorgias, 紀元前483年 - 紀元前376年)は古代ギリシア哲学者(ソフィスト、ソクラテス以前の哲学者)、修辞学者。シチリアレオンティノイの生まれ。プロタゴラスとともにソフィストの第一世代にあたる。古代のドクソグラファーの何人かは、ゴルギアスはエンペドクレスの弟子だったと伝えているが、これはいささか疑わしい。なぜなら、確かにゴルギアスはエンペドクレスより年下だが、たった2、3歳しか違わないからである。「他のソフィストたち同様、彼はあちこちの都市を巡業して回り、全ギリシアの中心であるオリンピアデルポイでは大衆の前でその技術を披露し、金を取って授業や公演を行った。ゴルギアスのパフォーマンスで特に売り物だったのは、観衆から種々雑多な質問を受け付け、即興でそれに答えることだった」[1]

ゴルギアスが評価されるのは、生まれ故郷のシチリアからアッティカにレトリック(修辞学、弁論術)を移植したことと、文学的散文に使う言葉としてアッティカ方言の普及に貢献したことである。
生涯

ゴルギアスは、シチリアのギリシア人植民地レオンティノイで生まれた。そこはギリシアのレトリックの故郷だと言われることがよくある。ゴルギアスには、カルマンティデスという名の父親と、ヘロディコスという名の医師の兄弟、さらにその孫がデルポイにゴルギアスの彫像を奉納した妹がいたことがわかっている[2]

紀元前427年、敵対するシュラクサイの脅威に対抗するため、レオンティノイは救援を求める使節をアテナイに派遣したが、その代表となったゴルギアスはその時既に60歳だった。その後、ゴルギアスはギリシア本土に住み着くことになったが、おそらく、その演説のスタイルが人気となり、また、そのパフォーマンスとレトリックの授業が金になったからだろう。アリストテレスによれば、ゴルギアスの生徒の中にはイソクラテスがいたという[3]

また後世の言い伝えによると、たとえば『スーダ辞典』では、ペリクレスがゴルギアスの生徒とされている。ピロストラトス(Philostratus)はこう言っている。「彼は立派な人たちの注目を浴びていた。若者では、クリティアスアルキビアデス(Alcibiades)、年輩者ではトゥキディデスにペリクレス。悲劇作家アガトーンもそうで、彼は「喜劇」が賢く流暢だと見なした人物だが、しばしばその短長格の詩の中でゴルギアス化した」[4]

ゴルギアスは100歳以上まで生きたと考えられている。その間に、神殿に奉納するために、自分の黄金像を作ることができるほどの相当な蓄えをした[5]。ゴルギアスは紀元前376年、テッサリアラリサで亡くなった。
レトリックの革新

ゴルギアスは、「構造」「装飾」「パラドクソロギアの導入」に関するレトリックの革新において、その先導役を務めた。パラドクソロギア(paradoxologia)とは逆説的思考と逆説的表現の概念のことである。これらの進歩によってゴルギアスは「詭弁の父」というレッテルを貼られてしまった[6]。一方でゴルギアスは、文学的散文の言葉としてアッティカ方言を普及させることに貢献したことでも知られている。

ゴルギアスのレトリックに関する著作(『ヘレネ頌』、『パラメデスの弁明』、『非存在について』、『エピタフィオス』)は、『テクナイ(Technai)』と題されたレトリック教育の入門書を通じて今に伝わっている。『テクナイ』は、もしかすると記憶された手本から作られたのかも知れないが、さまざまなレトリックの実践理論を説明した本である[7]。 一部の学者はそれぞれの作品の言説は対立していると言っているが、意欲に満ちた理論とレトリックのテクネー(技術)の相互に関係する著作として読むことができる[8]。それらのうち、完全な形で残っていると思われるのは『ヘレネ頌』と『パラメデスの弁明』で、 そこにはゴルギアス独自の演説・レトリック・政治観などが含まれている。アリストテレスもその中から、ギリシア統一の演説、戦死したアテナイ人への追悼演説、『ヘレネ頌』からの短い引用などを引用している。『非存在について』は演説ではなく論文だが、パラフレーズが残っている。『初期ギリシア哲学者断片集』にもそれらの部分部分があり、研究者たちはこの文献を信頼できるものと考えているものの、その本に含まれているものの多くは断片で、また原形が損なわれていて、ゴルギアスのものとされるテキストの確実性と正確さも疑問視する意見がある[9]

ゴルギアスの著作はレトリカルかつ遂行的(performative)である。ゴルギアスは自分の能力を誇示するためなら、不合理で論争的な立場をより強く見せることまでする。その結果として、ゴルギアスの著作は評判が良くなく、逆説的で、さらに不合理であるという評価を受けている。ゴルギアスの著作の遂行的な性質は、それぞれの主張に対して、パロディ・不自然な比喩的表現・芝居がかったわざとらしさといった文体上の工夫を使って、遊び戯れるようにアプローチするやり方が表している[10]

ゴルギアスの例証のスタイルは「poiesis-minus-meter(詩マイナス韻)」ともいうことができる。ゴルギアスは説得力のある言葉は神々のそれと同等で、腕力に等しい強さのドゥナミス(力)を持っていると論じる。『ヘレネ頌』の中で、ゴルギアスは魂に話しかける効果を、肉体への薬の効果になぞらえる。「異なる薬が異なる体液を肉体から汲み出す時、病気を治す薬もあれば、生命を奪う薬もある。言葉もそれと同じである。痛みを生むものもあれば、喜びを生むもの、恐怖を起こさせるもの、聴衆を大胆にかきたてるもの、さらに邪悪な説得で魂を麻痺させ魅了するものもある」[11]

ゴルギアスはさらに、自分の「魔法の呪文」は、激しい情熱を抑制することで人間の魂に癒しをもたらすと信じてもいた。ゴルギアスは言葉の響きに特に気を遣い、詩のように、聞き手を魅了した。ゴルギアスの華やかで押韻したスタイルは聞き手を魅了したように見えた[12]。ゴルギアスの伝説的な説得力は、ゴルギアスが聴衆とその感情に、いくらかの超自然的な影響力を与えられたということを示唆している。

他のソフィストたち(精神に関してはとくにプロタゴラス)と違って、ゴルギアスはアレテー(美点、徳)を教えるとは公言しなかった。ゴルギアスは、アレテーの完全な形はなく、それぞれのシチュエーション(たとえば、奴隷の徳は政治家の徳ではない)に関係するものだと信じていた。レトリックつまり説得の技術はどんな行動方針でも説得することが可能であるゆえに、あらゆる科学の王である、というのがゴルギアスの考えである。レトリックがすべてのソフィストのカリキュラムの中にあった間、ゴルギアスは他の何よりそれをより重要なものと位置づけた。

レトリックの性質・価値双方についての討論はゴルギアスとともに始まる。『ゴルギアス』と題されたプラトンの対話篇は、ゴルギアスのレトリックの利用・そのエレガントな形式・遂行的性質への反論を著したものである[13]。レトリックは実際にはテクネーと見なされるだけの必要条件を満たしておらず、弁論家とその聴衆の両方に働きかけるいささか危険な「経験(要領、コツ)」である。なぜなら、それは人々に対して、無知な人を専門家以上に物知りに見せる力を与えるからだ??ということを示すことが、この対話篇の中で試みられている。
非存在について

ゴルギアスの『非存在について』は失われた著作である。レトリックの著作というよりも、同時代のエレア派の命題を反駁し、パロディにした理論が述べられている。原文は失われていて、現在残っているのはパラフレーズがたった2つだけである。1つは哲学者セクストス・エンペイリコスの『数学者に対して』の中に、もう1つは作者不詳の『De Melissus, Xenophane, Gorgia』の中に出てくる。どちらも相手との会話部分が除外されていて、それはどちらも同じ文献を元にした可能性があることを示唆している[9]。しかし、それが懐疑的な論法を発展させたことは明らかである。その内容はざっと以下の通りである。
何も存在しない。

たとえ何か存在するにしても、それについて知りうることは何もない。さらに、

たとえ何かそれについて知りうることがあるにしても、それについての知識を他人と理解し合うことはできない。

この議論は広く、パルメニデスの存在に関する命題の皮肉な反論として理解されていた。ゴルギアスは、存在は1つで・不変で・永遠のものだということを示すことがたやすいように、結局何も存在しないということを証明するのも簡単だということを証明するためにこれを書いた。
レトリック作品
ヘレネ頌.mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}ウィキソースに『ヘレネ頌』(ギリシャ語)の原文があります。

ゴルギアスや他のソフィストたちは、その著作の中で、行動の結果を表現するための枠組み、ならびにそのような行動の解決を生み出す方法としての「言語の構造と機能について」思索した[14]

そして、それこそがゴルギアスの『ヘレネ頌』の目的である。アリストテレスはその著書『弁論術』の中で論じた修辞学の3つの区分、すなわち法廷弁論・議会弁論・演示弁論のうち、『ヘレネ頌』は演示弁論に分類されうるもので、トロイのヘレネへの讃美を表し、ヘレネがパリススパルタから去ったことへの非難からヘレネを無罪放免にしている、と述べている[15]


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