ゴリオ爺さん
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ゴリオ爺さん
Le Pere Goriot
1897年版の『ゴリオ爺さん』表紙に載せられた作者不詳の版画。ジョージ・バリー親子商会、フィラデルフィア
著者オノレ・ド・バルザック
発行日1835年3月
発行元ウェルデ出版
フランス
言語フランス語

ウィキポータル 文学

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『ゴリオ爺さん』(ゴリオじいさん、仏:Le Pere Goriot)は、19世紀フランスの文豪オノレ・ド・バルザックにより、1835年に発表された長編小説で代表作。作品集『人間喜劇』のうち「私生活情景」に収められた。

1819年パリを舞台に、子煩悩な年寄りゴリオ、謎のお尋ね者ヴォートラン、うぶな学生ウージェーヌ・ラスティニャックの3人の生き様の絡み合いを追う。大衆受けする作品で、しばしば映像化や舞台化がなされている。

サマセット・モームは、『世界の十大小説』の一つに挙げている。この作品の影響で、「ラスティニャック」は、フランス語で出世のためならどんな手も使う野心家をさす代名詞となった[注釈 1]
概要

1834年から1835年にかけて連載小説としてはじめて世に出て以来、『ゴリオ爺さん』は、バルザックの作品中で最も重要なものと広く考えられている[1]。まず、著者がそれまでに書いた他の小説の登場人物をまた登場させるという、バルザックの作品を特徴づけ『人間喜劇』を文学の中で孤高ならしめる手法、いわゆる「人物再登場法」をはじめて本格的に採用した点で特筆される。また、この小説は、登場人物およびサブテキスト(いわゆる行間の表現)を創り上げるために微に入り細に穿った表現を用いるバルザックの写実主義の典型としても有名である。

本作では、ブルボン家による王政復古の時代を舞台に、上流階級の座を確保しようともがく人々の姿が遍く描かれている。パリという都市も、登場人物たち、特に南フランスの片田舎で育った青年ラスティニャックに対して強烈な印象を与えている。バルザックは、ゴリオや他の人々を通して、家族や結婚の本質を分析し、そういった制度を悲観的に描いてみせた。

バルザック自身もこの作品を気に入っていたが、批評家からさまざまな褒貶を受けた。作家の描く複雑な登場人物や細部への注目に対して称揚する批評もあったが、堕落した行為や貪欲の描写の多さを非難したものもあった。
背景
歴史的背景

『ゴリオ爺さん』は、1815年にナポレオン1世ワーテルローでの敗北後、ブルボン家による復古王政が始まった後のこととして話が始まる。当時、ルイ18世とともに復古された貴族制と、産業革命によって勃興したブルジョアジーとの間で緊張が高まっていた[2]。そして、フランスは、圧倒的な貧困に浸かった下層階級の存在によって、社会構造の緊迫を経験していた。ある推計によれば、生計を立てるのに必要な最低額である年500-600フランの収入に満たない者が、パリの人口の4分の3近くにのぼったという[3]。だが、同時に、この激動は過去何世紀も続いたアンシャン・レジームの下では考えられなかったような社会的地位の変化を可能にしていた。この新しい社会のルールに自分を進んで合わせた人々の中には、つましい境遇からより上層へと登ることのできた者もいたが、もちろん古くからの由緒正しい富める者たちには忌み嫌われた[4]
文学的背景

バルザックが『ゴリオ爺さん』を執筆した1834年の時点で、彼はすでに(生計のために偽名で書いた一連の濫造小説を含めて)数十冊の著書をものしていた。1829年にはじめて本名で『ふくろう党』を出版してからも、『ルイ・ランベール』(1832年)、『シャベール大佐』(同年)、『あら皮』(1831年)と名作を発表している[5]。この頃までにはバルザックは自分の作品を、後に『人間喜劇』と呼ばれることになった作品集としてまとめ始め、19世紀初頭のフランスのさまざまな顔(側面)を表現するものとして分類している[6]人間喜劇の項を参照)。フランスの犯罪者ウージェーヌ・フランソワ・ヴィドック。『ゴリオ爺さん』に登場する悪党ヴォートランのモデルとなった。

バルザックを魅了したさまざまなフランスの顔の一つが、犯罪者の生き様だった。1828年の冬に、ペテン師から警官へと転身したフランス人ウージェーヌ・フランソワ・ヴィドックの回想録が出版され、犯罪的な手柄の数々が詳しく書かれたためにセンセーションを巻き起こした。バルザックは1834年4月に彼と会い、当時構想中だった小説の登場人物ヴォートランのモデルとした[7]
執筆と出版

バルザックが、自分の娘たちに拒絶された父親の悲劇に取り掛かったのは、1834年の夏のことだった。バルザックの日記には、数行の右のようなプロットが日付なしで記録されている「老ゴリオ氏の主題―善良な人物―中流下宿の住人―年収は600フラン―年収5万フランの娘たちに全財産を奉げ―野垂れ死にする」[8]。バルザックは、秋の40日ほどをかけて文案を練り、12月から翌1835年の2月まで「パリ評論」誌上に連載した。3月にはウェルデ出版社から出版、5月には第2版が出た。第3版は大幅に改訂されて1839年、シャルパンティエが出版している[9]。バルザックには、出版社から渡された校正刷りにおびただしいメモを書き込む癖があり、そのために彼の小説は版を重ねるにつれて、初期のものとはかなり違うものになることがよくあった。『ゴリオ爺さん』の場合は、登場人物の多くを彼が以前書いた小説で登場した人物に差し替え、また詳細な描写を盛り込んだ新たなパラグラフを付け加えた[10]

ウージェーヌ・ド・ラスティニャックは、初期の哲学的幻想小説『あら皮』では老人として登場した。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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