ゴリウォーグ
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フローレンス・ケイト・アプトンの挿絵(1895年

ゴリウォーグ(Golliwogg、Golliwog、golly dollとも)は19世紀末にイギリス児童文学者・挿絵画家フローレンス・ケイト・アプトンが考案したキャラクター。当初はぬいぐるみ様のキャラクターとして絵本に描かれていたが、1960年代以降子ども向け玩具人形)にも用いられ、欧米オーストラリアで多大なる知名度を誇るようになった。漆と淵の白い、おどけたに縮毛が特徴で、特にアメリカでは反黒人勢力による風刺画に度々描かれてきた[1]

こうした経緯から、一種の児童文化として保全すべきとの声がある一方で、奴隷制をはじめアフリカ系に対する人種差別が生々しかった時代の遺物として葬り去るべきとの批判が後を絶たず、ゴリウォーグに対しては今なお白熱した議論が戦われているのが現状である[1]。ただ、人種差別への認識が高まるにつれゴリウォーグの人気や売り上げが落ちたのは否めなく、人形の製造業者も従前の特徴はもとより、ゴリー(Golly)やゴリー・ドール(golly doll)などと名称を変えた上で売り出している。
目次

1 歴史

1.1 人種差別のシンボルとして


2 エピソード

3 脚注

4 関連項目

5 外部リンク

歴史 ゴリウォーグと白人の子ども

フローレンス・ケイト・アプトンは1873年ニューヨーク州クイーンズ区フラッシングにて3年前イングランドから移住した両親の下に生まれる。14歳の時に実父が死亡すると、母や姉妹を連れてイングランドへ帰郷し、数年間を描いたりして過ごす。1895年には美術学校に通う傍ら、処女作『2つのオランダ人形とゴリウォーグの冒険(The Adventures of Two Dutch Dolls and a Golliwogg)』を発表。本作にてゴリウォーグという黒人を模したキャラクターが初めて登場するが、ミンストレル・ショーの伝統を踏襲し、肌が黒く真っ赤な唇をした、もじゃもじゃ頭のノームとして描かれ、衣装も同様に赤いズボン蝶ネクタイ、青いジャケットが特徴であった。

アプトンが著した一連の作品群はイングランドで大成功を収め、同時にゴリウォーグの名も遍く広まった結果、同様の人形やイラストを指す一般的な名称となった[1]。ゴリウォーグ人形は20世紀に入っても子どもたちの間で人気が衰えること無く、イーニッド・ブライトンの作品にも英雄として描かれるなど、イギリス国内における商業文化に深く浸透した。なお、アプトンのゴリウォーグは陽気で勇敢なキャラクターであった[1]ものの、時を経る毎に邪悪で恐ろしい性格へと変貌を遂げている。やがてゴリウォーグの名はヨーロッパ大陸にも広がり、児童文学や人形、玩具、女性香水、果ては宝石にまで用いられるようになった。 ゴリウォーグをあしらった1920年代の香水瓶

この他、イギリスのジャム製造会社であるロバートソン社では、1910年より「ロバートソンズゴリー」なるゴリウォーグをモチーフとしたマスコットを起用、1920年代以降は商品おまけとしてゴリウォーグが描かれた販促用バッジの製造を開始した。しかし、1983年大ロンドン議会から抗議を受け同社の製品がボイコットされる始末となり、その5年後にはテレビCMからゴリウォーグが姿を消した。なお、バッジ自体は2001年で製造を打ち切ったため、現在では極めて高値で取引されることが多く、希少品ともなれば1000ポンド以上に跳ね上がるという(通常のバッジなら数ポンド程度である)。
人種差別のシンボルとして

アプトンのデビュー作発刊以後、「ゴリウォーグ」という語は玩具などに用いられると共に、黒人を表す一般的かつ人種差別的な名称となった。イギリス及びコモンウェルスでは、「ゴリウォーグ」から派生した「ウォグ」(wog)という表現が黒人(特に中近東並びに極東出身者)に対する蔑称として広まった[2]。また、オーストラリアにおいてはギリシアレバノンシリアそしてその他地中海沿岸地域の血を引く若年層が「ウォグ」と呼ばれていた。こうした同国の大衆文化の例としては、2000年公開の映画『ザ・ウォグ・ボーイ』(ニック・ジアノプロス主演)がある。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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