ゴドフロワ・ド・ブイヨン
1330年ごろに描かれたゴドフロワ・ド・ブイヨンの肖像
エルサレムの統治者
在位期間
1099年7月22日?1100年7月18日
次代ボードゥアン1世
下ロレーヌ公
在位期間
1089年 - 1096年
先代コンラート2世
次代アンリ1世
ゴドフロワ・ド・ブイヨン (仏:Godefroy、蘭:Godfried、 独:Gottfried、 羅:Godefridus Bullionensis、1060年 - 1100年7月18日) は、中世フランス貴族[1][2]で第1回十字軍の指導者の1人である。また1099年から1100年にかけて、エルサレム王国最初の統治者として聖地を統治した貴族としても知られている。ただしゴドフロワはエルサレム王と名乗るのを避け、公または第一人者 (princeps) 、聖墳墓守護者などと名乗ったと伝わる[3][4]。ゴドフロワはブローニュ伯(フランス語版)ウスタシュ2世の次男として生まれ、1076年にはブイヨン領主(英語版)に任命された。そして1086年には、ザクセン人の大反乱(英語版)の鎮圧に参加し神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世を支援したことを受けて、その褒章として下ロレーヌ公に任じられた。
1096年、ゴドフロワは彼の兄弟のブローニュ伯(フランス語版)ウスタシュ3世やボードゥアンと共に第1回十字軍に参加し、ニカイア包囲戦・ドリュラエウムの戦い・アンティオキア攻囲戦などの戦役に参加し、1099年のエルサレム包囲戦では重要な役目を果たした。レーモン4世がエルサレム国王への推戴を拒否したことを受け、ゴドフロワが代わりにエルサレム王国の統治者に選出された。その後王国南部のアスカロンでファーティマ朝と戦い、王国をムスリムから守り抜いた。この戦いでの十字軍の戦勝をもってして、第1回十字軍は終了したとみなされている。1100年7月、ゴドフロワは亡くなり、エルサレム王位は弟のボードゥアンに継承された。 ゴドフロワ・ド・ブイヨンは1060年頃、ブローニュ伯
若年期
実際、下ロレーヌ地域は神聖ローマ帝国からも重要地域と見做されていたとされ、1076年にはのちの神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世が下ロレーヌ公に自分の息子を任じ、ゴドフロワにはブイヨン地域とアントウェルペン辺境伯国(英語版)のみを与えたという。言い伝えによれば、この処遇はハインリヒ4世がゴドフロワの忠誠を試すために行ったとされる。ゴドフロワはハインリヒ4世に対する忠誠を守り、叙任権闘争でローマ教皇グレゴリウス7世と対立するハインリヒ4世を支援した。そして彼はハインリヒ帝と共にシュヴァーベン公ルドルフの軍勢と戦い、ハインリヒ帝がローマに入城した際にはイタリアへ従軍した。
1076年に叔父のゴットフリート4世からゴドフロワが相続したロレーヌ公領の相続権を主張し、彼の叔母マティルデ・ディ・カノッサがゴドフロワに対して挑戦を仕掛けた。これに対抗するべくゴドフロワは公領防衛に死力を尽くし、この際に彼は卓越した指導力を示すこととなった。マティルデ女伯は従兄弟のナミュール伯アルベール3世・フェルウェ伯セオデリクと同盟を締結しゴドフロワと対決した。またこの同盟にはヴェルダン司教セオデリク・リンブルフ公(英語版)ワレラン1世(英語版)・チニー伯(英語版)アルノルド1世(英語版)といった中小諸侯が参加し、彼らは戦利品としてロレーヌ公領を分割占領しようと企んだ。
ロレーヌ公領を狙うこうした数々の敵に対して、ゴドフロワは兄弟のウスタシュやボードゥアンの助力を得て対抗した。彼らは長きにわたり争い、1087年に遂にゴドフロワは敵の同盟を打ち破り、ロレーヌを守り抜いた。しかし、この時のゴドフロワはまだまだ弱小諸侯に過ぎず、十字軍に参加するまでドイツ諸侯の表舞台には現れない。
第1回十字軍詳細は「第1回十字軍」を参照1808年から聖墳墓教会に展示されているゴドフロワ・ド・ブイヨンの刀(1854年撮影)[7]
1095年、ローマ教皇ウルバヌス2世がヨーロッパ中の諸侯に十字軍遠征を呼びかけ、聖地エルサレムの解放と東ローマ帝国が1071年にセルジューク朝に奪われた広大な東方領の奪還のための軍事支援を要請した。ゴドフロワはこの要請に応じ、リエージュ司教(英語版)やヴェルダン司教(英語版)に自身の領土を売り払い、得られた資金で自身の十字軍軍団(英語版)を結成した。またこの軍勢には兄弟のウスタシュやボードゥアンも参加し、特にボードゥアンはヨーロッパに封土を有していなかったため、聖地で自身の領地を獲得せんと試みて遠征に参加したとされている。他の諸侯らも同様に自軍を集めて十字軍遠征に備えていたが、その中でも最も大規模な軍勢を従えていたのが、のちに対立することとなるトゥールーズ伯レーモン4世であった。レーモンはこの時既に55歳であり、遠征に参加した諸侯の中で最も老齢でかつ最も経験豊富な十字軍諸侯であったため、十字軍の総司令官として全軍を率いることが期待されていた。また教皇勅使として十字軍に参加していたアデマール・ド・モンテイユもそれを強く後押しした。十字軍には彼らの他にターラント公ボエモンやフランドル伯ロベール2世らが参加した[8]。