ゴドウィン(英語: Godwin あるいは Godwine[1]、1066年から1069年にかけて活動)はイングランド国王ハロルド・ゴドウィンソンの息子(恐らくは長男)。彼はノルマン・コンクエストによって2人の兄弟とともにダブリンに追放され、そこから2回にわたり南西イングランドに遠征したものの、ほとんど成功をおさめなかった。
出自(英語版
ヘイスティングスでのハロルド・ゴドウィンソンの敗死は彼の家族にとって(特にロンドンのアングロ・サクソン諸侯がハロルドの息子ではなくエドワード懺悔王の大甥エドガー・アシリングを王に選んだことは)災難であった。エドガーの短い「治世」(彼は実際には戴冠することはなかった)はウィリアム1世が1066年12月ロンドンに入城することで終わりを告げた[7]。ゴドウィン・ハロルドソンの祖母でゴドウィン伯の未亡人ギータ
(英語版)は南西イングランドに逃れ、未征服のままだった地域で権力を安定させようとしたものの、1068年の初めにはウィリアムが軍を率いて彼女をエクセターに追い詰めるまでになった[8]。当時の文献ではゴドウィンはこの南西部での反乱勢力として特に言及はされていないものの、兄弟のエドマンド(英語版)やマグヌス(英語版)とともに反乱勢に加わり、アングロ・サクソン人の抵抗勢力の主導者になると主張していた可能性は高い[9][10][11][12]。18日後にはエクセターがウィリアムに降伏するが、それまでにギータ(ひょっとするとその孫たちも)はブリストル海峡の島(恐らくスティープ・ホルム島(英語版))に亡命していた[3][13][14]。