ゴドウィン_(ハロルド・ゴドウィンソンの息子)
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ゴドウィン(英語: Godwin あるいは Godwine[1]1066年から1069年にかけて活動)はイングランド国王ハロルド・ゴドウィンソンの息子(恐らくは長男)。彼はノルマン・コンクエストによって2人の兄弟とともにダブリンに追放され、そこから2回にわたり南西イングランドに遠征したものの、ほとんど成功をおさめなかった。
出自

ゴドウィンの正確な誕生日は分かっていないが、1040年代の半ばから後半にかけてであると推測される[2][3]。彼の家族(英語版)はアングロ・サクソン期のイングランドのなかでも特に有力な一族であった。父方の祖父はウェセックス伯ゴドウィンであり、父はその称号を後に受け継ぐハロルド・ゴドウィンソンであった。彼の母白鳥首のエディス(英語版)は「デンマーク風(英語版)」(教会から公認されたわけではないが、当時俗世間では広く合法だと認識されていた方法)にハロルドに嫁いだ。例えばクヌート王エルフギフ・オブ・ノーサンプトンは同様の方法で結婚したが、その息子ハロルド兎足王は王位を受け継いだ[4]。ハロルド・ゴドウィンソンには5人の(恐らく母親の異なる)息子がいたが、いくつかの証拠の組み合わせによってゴドウィンが最年長であったと示唆される。例えば、1066年に彼のみがドゥームズデイ・ブックに土地所有者として記されており、年代記作家ウスターのジョン(英語版)がハロルドの息子たちを上げる中で彼が最初に記されており、その上彼はハロルドの父に因んで名づけられている[5][1]。ゴドウィンが大貴族の息子として(軍事的および外交的スキル獲得に重点を置いた)有益な教育を受けたと推測できる。彼は今やイングランド国王となった父のためにヘイスティングスの戦いで戦うためには若すぎたものの、その後数年のうちにこれらのスキルを活かす機会に恵まれることとなる[6]
南西イングランドでの抵抗

ヘイスティングスでのハロルド・ゴドウィンソンの敗死は彼の家族にとって(特にロンドンのアングロ・サクソン諸侯がハロルドの息子ではなくエドワード懺悔王の大甥エドガー・アシリングを王に選んだことは)災難であった。エドガーの短い「治世」(彼は実際には戴冠することはなかった)はウィリアム1世が1066年12月ロンドンに入城することで終わりを告げた[7]。ゴドウィン・ハロルドソンの祖母でゴドウィン伯の未亡人ギータ(英語版)は南西イングランドに逃れ、未征服のままだった地域で権力を安定させようとしたものの、1068年の初めにはウィリアムが軍を率いて彼女をエクセターに追い詰めるまでになった[8]。当時の文献ではゴドウィンはこの南西部での反乱勢力として特に言及はされていないものの、兄弟のエドマンド(英語版)やマグヌス(英語版)とともに反乱勢に加わり、アングロ・サクソン人の抵抗勢力の主導者になると主張していた可能性は高い[9][10][11][12]。18日後にはエクセターがウィリアムに降伏するが、それまでにギータ(ひょっとするとその孫たちも)はブリストル海峡の島(恐らくスティープ・ホルム島(英語版))に亡命していた[3][13][14]
アイルランドからの襲撃


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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