ゴットフリード・ワグネル
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ゴットフリート・ワーグナー」とは別人です。

ゴットフリード・ワグネル

生誕1831年7月5日[1]
ハノーファー王国ハノーファー[1]
死没 (1892-11-08) 1892年11月8日(61歳没)[1]
大日本帝国東京府東京市神田区駿河台
職業お雇い外国人
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ワグネル博士顕彰碑、京都市左京区岡崎公園ワグネル博士顕彰碑、京都市左京区岡崎公園東京工業大学キャンパス内にあるワグネルの記念碑

ゴットフリード・ワグネル(Gottfried Wagener、1831年7月5日 - 1892年11月8日)は、ドイツ出身のお雇い外国人。ドイツ語での発音はゴトフリート・ヴァーゲナー(ドイツ語発音: [?g?tfri?t ?va?g?n?][2])。

事業参加のため来日し、その後政府に雇われた珍しい経緯を持つ。京都府立医学校(現・京都府立医科大学)、東京大学教師、および東京職工学校(現・東京工業大学)教授。また、陶磁器ガラスなどの製造を指導した。ヘンリー・ダイアーらと同時期に明治時代の日本で工学教育で大きな功績を残し、墓碑や記念碑が後年まで管理され残っている。
生涯
訪日以前

1831年ハノーファー王国ハノーファーで生まれる[1]。父は官吏で、母と姉(妹)、弟がいた。成績はきわめて優秀だったが生涯を通じて非常に内気な性格であったといわれる。1846年に15歳で工芸学校に入学し、2年後の卒業とともに鉄道会社に勤める[1]。しかし恩師の強い勧めを受けて数学自然科学の教師を目指し、1849年ゲッティンゲン大学に入学した。この大学には2年間在籍し、数学者カール・フリードリヒ・ガウスペーター・グスタフ・ディリクレ[1] や物理学者ヴィルヘルム・ヴェーバーらの指導を受け教員の資格を得た。さらにベルリン大学で1年間学んだ後、「ポテノーの問題(英語版)」に関する学位論文をゲッティンゲン大学に提出し、ガウスらの審査を受けて21歳で数理物理学の博士号を取得した。

卒業後の1852年に政治的理由からパリに移住し、ドイツ語の個人教授や寄宿学校の数学教師を経てパリ中央電信局の翻訳官となる。ここでフランス語をはじめ、イタリア語デンマーク語など各国の言語を習得する[1] が、1857年リウマチを患い、これが生涯の持病となる。この後、政治家サンティレール(英語版)の秘書を経て1859年頃にスイスラ・ショー=ド=フォンで工業学校の教師を務める[1]。ここで機械工作などの研究を行うが、学制改革に伴って1864年に職を辞して義兄(弟)と建設事業を興す。リウマチの悪化で翌年に仕事をやめてカールスバート(現・カルロヴィ・ヴァリ)で療養した後、パリで弟と化学工場を始めるが失敗に終わる。
訪日?ウィーン万国博覧会

アメリカ企業のラッセル商会石鹸工場設立に当たり、パリ時代からの親友が紹介した社長のトーマス・ワルシュによって、ワグネルは長崎に招聘された[1]1868年3月29日マルセイユを出発。同年5月15日慶応4年4月23日)に長崎に到着した[1]。しかし製品開発はうまくいかず、工場は軌道に乗らずに廃止された[1]。その後、佐賀藩に雇われて1870年4月より8月にかけて有田町窯業の技術指導にあたった。ここでは

石灰を用いた経済的な釉薬の開発

従来使われていた呉須に代わる安価なコバルト顔料の使用

不足を解決するための石炭窯の築造実験

などを行い、科学的手法による伊万里焼有田焼)の近代化に影響を与えた[1]1870年11月頃には大学南校(現在の東京大学)のドイツ語教師として東京に移り[1]、月給200ドルで雇用された。翌年の文部省設立と大学改組に伴い、1872年に医療系の東校(後に東京医学校、現・東京大学医学部)の数学博物学物理学化学の教師となり[1]、月給も300ドルに増額された。

1873年ウィーン万国博覧会では、事務局副総裁の佐野常民の強い要望で東校と兼任のまま事務局御用掛となった。ヨーロッパの嗜好や化学の知識を持っていたためと考えられる。役職名は「列品並物品出所取調技術誘導掛」であり[1]、博覧会への出品物、特に陶磁器などの選定や技術指導、目録・説明の作成を行った。一例として、京都の清水焼粟田焼について陶工を呼んで説明を受け、届いた注文品については焼成などに問題があるため不合格とし、白焼の品を事務局附属の磁器製造所(東京浅草区)で絵付けするよう指示している。なお、この処置については後に粟田焼の陶工・丹山清海から不満の声が上がっている[3]
ウィーン万国博覧会以降

万博終了後、随行者の中から納富介次郎など23名が伝習生としてヨーロッパで学ぶことになり、ワグネルはその斡旋を受け持った[1]


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