(国旗)
ゴッテスハウス同盟は緑色、灰色同盟は茶色、十裁判区同盟は橙色、のちに失った属州は灰色で、それぞれ示されている。
首都クール
元首等
xxxx年 - xxxx年不明
変遷
ゴッテスハウス同盟設立1367年
常設審議会の設置1409年
三同盟間の協力関係の形成と神聖ローマ帝国からの事実上の独立15世紀後半
Ilanzer Articleによる司教の政治的権力剥奪1524年から1526年
三同盟のための永久盟約憲法1524年9月23日
ヘルヴェティア共和国が併合1799年4月21日
先代次代
クール
ドムレシュク
シャムス
オーバーハルブシュタイン
オーバーエンガディン
ウンターエンガディン
ベルゲル
フュンフ・ドルファー
ポスキアーヴォヘルヴェティア共和国
ゴッテスハウス同盟(ドイツ語:Gotteshausbund、イタリア語:Lega Caddea、 ロマンシュ語: Lia da la Chade[ヘルプ/ファイル] )は、クール司教とハプスブルク家の権力に抵抗するために、1367年1月29日に現スイスで設立された同盟。1471年には、灰色同盟および十裁判区同盟と三同盟を形成した。ナポレオン戦争の後、ゴッテスハウス同盟はスイスのグラウビュンデン州の一部となった。 ゴッテスハウス同盟の前身となった地域は常にクール司教区の影響を強く受けていた。クール司教は 451年に聖アシモ司教がミラノ宗教会議に出席したとき、初めて歴史上の記述として現れるが[1]、おそらくもう一世紀ほど前から存在していたと考えられる。5世紀から6世紀にかけて、クール周辺地域では広範なローマ化とキリスト教への改宗が起こったことも確認されている[1] [2]。536年にはメロヴィング朝フランク王国に征服されたが、王国中心部からの距離と隔離された地形によりすぐに事実上の独立状態に復帰した。この間、この地域はラエティア・クリエンシス(”Churratien”または”Churwalchen”)と呼ばれ、クール司教が神権政治を敷いたのと実質的に同じ領域が政治的支配をうけた。773年になるとこの地域の政治的権力と宗教的権力はある一家のもとに統合されたが、この状況は806年にカール大帝が聖俗の権力を二分すると終わりを迎えた。この分割とそれに起因する紛争によりラエティア・クリエンシスは崩壊し、クールを中心とした多数の小さな独立共同体が成立した。一方のクール司教たちは分裂後何世紀もの間、政治的にも宗教的にも権力をより拡大したいと願っていた。[3] 14世紀のクール司教の主要な領地はセプティマー峠からジュリア峠へと南北に走る街道に沿って広がっていた。 司教は、クール周辺の地域を支配しており、またフュンフ・ドルファー(ラントクワルト)、クール、オーバーハルブシュタイン、オーバーエンガディン、ベルゲル、シャムス、ラインヴァルト、ウンターエンガディン、フィンシュガウに高度裁判権を有していた。 1363年から後、クール司教と住民との関係は悪化した。[4] ハプスブルク家のオーストリア大公は、ヴァル・ミュシュタイアーとウンターエンガディンを含むチロル伯国を獲得し、クール司教区へと支配を拡大しようとしていた。一方、外国人で不在がちだった司教のピーター・ゲリト・フォン・ベーメンも司教管区の財政を赤字に追い込んだため、年俸と引き換えに地域の政治的指導権をハプスブルク家へと売却することを厭わなかった。そして1336年には第一段階としてフィンシュガウのブルクアイス(マッレス・ヴェノスタ)にあるフュルステンベルク要塞を租貸した。ハプスブルク家による開発の代理人と化したクール司教のこの行動に対して、各共同体とクール市は1365年にツェルネッツのヴィルデンベルク城で会合を行った。さらに1367年1月29日、彼らは変革を念頭に再びクールに集まった。 この会議には三種類の権力集団があった。一つ目は聖堂参事会の特使や司教のミニステリアーレといった宗教的共同体の代議員。二つ目は広範な渓谷の共同体からの代議員(ドムレシュク、シャムス及びベルゲルから各々6人、オーバーハルブシュタインから4人、オーバーエンガディンから3人、ウンターエンガディンから2人)。
同盟結成前
同盟の設立