コールドストリームガーズ
[Wikipedia|▼Menu]
衛兵任務中のコールドストリームガーズ連隊兵士。

コールドストリームガーズ(: Coldstream Guards、Coldstream Regiment of Foot Guards)は、イングランド歩兵連隊清教徒革命時代の1650年にイングランド共和国歩兵連隊として発足し、イングランド内戦では陸軍第一次英蘭戦争では海軍の部隊として戦い、王政復古後はイングランド王国近衛歩兵連隊となっている。現在においてもイギリス陸軍の部隊として海外に派遣され、或は近衛兵としてロンドンでの衛兵や儀仗任務を行なっており、継続して任務に就いている連隊としては世界最古である[1][2][3]

日本ではコールドストリーム連隊[4]、コールドストリームガーズ連隊[5]、コールドストリーム近衛連隊[6]、コールドストリーム近衛歩兵連隊、近衛コールドストリーム連隊、近衛コールドストリーム歩兵連隊等複数の表記例がある。

イギリスでは18世紀から19世紀にかけて連隊を番号で呼んでおり、その頃は「2nd Regiment of Foot Guards」とも呼ばれていた。そのため、この時代以外の記述にも、近衛歩兵第2連隊或は第2近衛歩兵連隊等と日本では表記されることもある[7]。また、このような資料の作戦地図にある軍隊符号で2Gと表記されている歩兵連隊もコールドストリームガーズのことを指す。

一方、英語の記述では、この時代でも「2nd」ではなく、当時あった3個の近衛歩兵連隊が「1st, Coldstream, 3rd Foot Guards」と表記されることも珍しくない[8][9][10]
歴史

イギリス陸軍で最初の常備軍である、オリバー・クロムウェルが組織したニューモデル軍の連隊として、1650年4月23日にジョージ・モンク[11]ベリックで設立した。当時の名前はモンクの歩兵連隊(Monck's Regiment of Foote)であった。”モンクの歩兵連隊”[6]は、1647年にアーサー・ヘジルリッジ卿がニューカッスルで創立した連隊からの5個中隊と、バーウィックで創設されたジョージ・フェンウィック大佐(George Fenwick)の連隊からの5個中隊を合わせて編成された。

ジョージ・モンクはチャールズ1世時代に失脚し、清教徒革命時には議会派に属していた軍人であり、「イングランド内戦に於ける最も優れた軍人の一人[12]」とも評されている。

コールドストリームガーズ連隊の創立者ジョージ・モンク

オリバー・クロムウェル

アーサー・ヘジルリッジ

イングランド共和国ダンバーの戦い。

”モンクの歩兵連隊”は、1650年9月3日のダンバーの戦いに議会派として参加し、初陣を飾った。この戦いに議会派が勝利したことによって、スコットランドは議会派に制圧された。この戦いにはスコッツガーズの前身であるチャールズ2世(当時はスコットランド王)の護衛歩兵隊(Lyfe Guard of Foot)が王党派として加わっていたが、更に翌1651年のウスターの戦いにも敗れたため、チャールズ2世は大陸へ亡命し、護衛隊は解散させられた。そのため、スコッツガーズは1642年創立とされているが、再建される1661年まで廃止状態だったため、”最古の連隊”とは認められていない。[13]1652年に第一次英蘭戦争が始まるとモンク大佐は”ジェネラル・アット・シー”(General at Sea)[注 1]に任命され、戦隊を率いてオランダ艦隊と戦うことになった。そして、ポートランド沖海戦(Battle of Portland)で先任のジェネラル・アット・シーであったロバート・ブレイクが負傷した後は、イングランド共和国艦隊の総司令官としてガッバードの海戦(Battle of the Gabbard)及びスヘフェニンゲンの海戦(Battle of Scheveningen)の指揮を執った[15]。この間、”モンクの歩兵連隊”はモンク将軍に従って艦隊に乗組み、一連の海戦を戦った[16][17]

ロバート・ブレイク

ガッバードの海戦

スヘフェニンゲンの海戦

イングランド王国チャールズ2世2007年のトゥルーピング・ザ・カラーで行進する近衛歩兵連隊軍楽隊。グレナディアガーズ軍楽隊が手前(擲弾の襟章)なのに対し、コールドストリームガーズは一番奥(帽子に赤い羽根飾り)に位置している。

1660年、王政復古の宣言がされるとモンク将軍は王党派に転じ、後任のジェネラル・アット・シーであるエドワード・モンタギュー(Edward Montagu/後に初代サンドウィッチ伯爵)に対し、艦隊を率いて国王を亡命先のオランダへ迎えに行くよう指示した。エドワード・モンタギューはこの頃地方に隠遁していたが、ロンドンに残していた執事(当時)のサミュエル・ピープス[注 2]を通じて議会の動向を把握しており、モンクに従ってイングランド艦隊を掌握し、オランダへ向かった[19]

”モンクの歩兵連隊”はスコットランドのコールドストリーム(Coldstream)に駐留していたが、スコットランドへ上陸したチャールズ2世と合流し、ロンドン入城に同行した。そのため、現在でも募兵の際はこの時に通ったイングランド側の沿道地域出身者を優先採用している。また、現部隊名の”コールドストリーム”はこの頃付いたあだ名である[20]

この年、”モンクの騎馬護衛隊”(Monck's Life Guards)が第2(クィーンズ)近衛騎兵隊(2nd(Queen's) Troop of Horse Guards)となった。この騎兵隊は後に他の近衛騎兵隊と統合されてライフガーズ連隊となる。翌1661年、”モンクの歩兵連隊”も近衛連隊となり、”ロードジェネラルズ近衛歩兵連隊”(The Lord General's Regiment of Foot Guards)となった。また、1664年には”コールドストリーム連隊”の兵士500名が海上勤務に転じ、”デューク・オブ・ヨーク・アンド・アルバニー海上歩兵連隊”(Duke of York and Albany's Maritime Regiment of Foot)が編成された[21]。この連隊はイギリスで初めての艦上勤務を専門とする歩兵部隊であり、イギリス海兵隊の母体となった[16][17]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:55 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef