コーネル・デュプリー
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コーネル・デュプリー
Cornell Dupree
コーネル・デュプリー(1976年7月)
基本情報
出生名Cornell Luther Dupree
生誕 (1942-12-19) 1942年12月19日
アメリカ合衆国 テキサス州フォート・ワース
死没 (2011-05-08) 2011年5月8日(68歳没)
アメリカ合衆国 テキサス州フォートワース
ジャンルR&Bソウル・ジャズフュージョン
職業ミュージシャン
担当楽器ギター
レーベルアトランティックウーンデッド・バード、Antilles、Kokopelli、Dialtone
共同作業者スタッフガッド・ギャング
著名使用楽器
ヤマハ・PACIFICA 1512CD
2008年のビル・ウィザース・トリビュートコンサートでウィザースと共演するデュプリー

コーネル・デュプリー(Cornell Dupree、1942年12月19日 - 2011年5月8日)は、アメリカギタリストスタジオ・ミュージシャンスタッフのメンバーとして知られた。
バイオグラフィ
初期

1942年にテキサス州フォート・ワースに生まれ育つ。地元の高校であるI・M・テレル高校 (I.M. Terrell High School)を卒業。

地元のクラブでキング・カーティスに見出され、20歳で「ザ・キング・ピンズ」に参加。同バンドの初期にジミ・ヘンドリックスが加入し、2人でギターを担当。当時はジミ・ヘンドリックスの派手なプレイとは対照的に、リズムギターに徹していたという。まもなくアトランティック・レコードのセッション・マンとなり、ブルック・ベントンのヒット・シングル「Rainy Night in Georgia」に参加。以後もルー・ロウルズダニー・ハサウェイポール・サイモンバーバラ・ストライサンドハリー・ベラフォンテレナ・ホーンロバータ・フラックジョー・コッカーマイケル・ボルトンマライア・キャリー等、幅広い分野のミュージシャンのレコードで参加している。アレサ・フランクリンのバンドには、1967年から1976年にかけて在籍していた。1972年、ロバータ・フラックのツアー同行中、交通事故に遭遇。事故の影響でギターの腕が衰えるも、次第に演奏能力を回復させて初のソロ・アルバム『ティージン』を発表する。
スタッフ

ジャズ・ミュージシャンとしても活動しており、デビュー・アルバム『ティージン』を1974年にリリース。ゴードン・エドワーズによるセッション・バンド、「エンサイクロペディア・オブ・ソウル」にも参加。このバンドが母体となり「スタッフ」を結成、ワーナー・ブラザース・レコードと契約。1976年8月にスイスモントルー・ジャズ・フェスティバルに出演し、同年にセルフタイトル・アルバムをリリースしメジャー・デビュー。

スタッフは4枚のアルバムをリリースし、人気のあるバンドとなったが、メンバーがソロ活動などで多忙になってきたため、1980年のライブ・アルバムを最後に自然消滅。その後、メンバーのスティーブ・ガッドを中心にリチャード・ティーと共に「ガッド・ギャング」が結成された。
ソロ活動

ソロ活動はスタッフに在籍していた時からも継続して行っている。1988年発表の『コースト・トゥ・コースト』はグラミー賞にノミネートされた。ファンキーなセッションもしており、1991年の『キャント・ゲット・スルー』や、1992年のライブ・アルバム『アンクル・ファンキー』、1994年の『チャイルズ・プレイ』は良い評価を受けている。1994年の『Bop 'n' Blues』は最もストレート・アヘッド・ジャズ寄りなアルバムとされる。

リードギターの実力者であるが、大木トオルは自身のアルバム制作の際、友人のコーネルをサイドギターに起用したことがある。理由はアルバート・キングとの共作のために、バックを強力に固めたかったこともあるが、コーネルがギターを持ち始めた頃から、アルバートの大ファンだと知っていたためである。

2009年3月にはビルボードライブ東京にて、ジェームス・ギャドソンと来日公演を行っている[1]

晩年は肺気腫を患って[2]肺の移植手術を待っていたが、2011年5月8日にテキサス州フォートワースの自宅で死去。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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