コーネリアス・ジョン・ライトホール・ベーツ
[Wikipedia|▼Menu]

コーネリアス・ジョン・ライトホール・ベーツ (Cornelius John Lighthall Bates、1877年5月26日 - 1963年12月23日[1])は、カナダ宣教師関西学院第4代院長(1920年から1940年)。関西学院大学初代学長を歴任した。1912年に、商学部の初代学部長であった時に、"Mastery for Service"という関西学院のスクール・モットーを提唱した。
来歴関西学院大学

カナダ・オンタリオ州ロリニャル(L'Orignal)出身。マギル大学クイーンズ大学を経て、モントリオールのウエスレアン神学校に進む。関西学院は当初、アメリカ南メソヂスト監督教会単独での経営であった。その後、カナダ日本両メソジスト教会との3者共同経営に変わったのを受けて、カナダを代表する形で、1910年明治43年)に赴任した。

商学部の初代学部長であった1912年(明治45年/大正元年)に、"Mastery for Service"という関西学院のスクール・モットーを提唱した。その後、院長、初代学長を歴任した。在任中に、関西学院の上ケ原移転や大学昇格の事業を推進した。太平洋戦争勃発直前の1940年昭和15年)12月、やむなく辞任する。別れに際し、後事を託す数人の教え子、教職員を部屋に招き、ともに祈り、学院のすべての友に宛てて、”Keep This Holy Fire Burning”「この聖なる火を絶やさないように」というメッセージを残した[2]
脚注[脚注の使い方]^関西学院事典
^ 河辺満甕「恩師ベーツ先生のことどもー学院教育にふれつつー」『学院を語る』(1965年)

参考文献

池田裕子, ロリニャルから世界へ:カナダ東部におけるベーツ院長関係地訪問
, 関西学院史紀要, 19: 105-153 (2013).

池田裕子, ⇒故郷ロリニャルの C. J. L. ベーツ, 学院史編纂室便り No.31 (2010.5.15).

池田裕子, ⇒ベーツ院長辞任の真相を探る : 『ベーツ日記』を手がかりとして, 関西学院史紀要 vol. 10, 37-73 (2004).

関連項目

高山外国人避暑地(別荘を所有していた)

外部リンク

ベーツ,C.J.L. 。学校法人関西学院


Cornelius John Lighthall Bates (1877-1963) - Find A Grave Memorial

学職
先代
J.C.C.ニュートン
1916年4月1日?1920年関西学院院長
1934年-1940年 第4代次代
神崎驥一
1940年9月11日?1950年2月3日
先代
新設
-関西学院大学学長
1934年-1940年 初代次代
神崎驥一
1940年-1946年










関西学院院長(第4代:1920年10月15日?1940年9月11日)


初代W.R.ランバス 1889年9月28日-1891年1月

(欠)

第2代 吉岡美國 1892年9月1日-1916年3月31日

第3代 J.C.C.ニュートン 1916年4月1日?1920年

第4代 C.J.L.ベーツ1920年10月15日?1940年9月11日

第5代 神崎驥一 1940年9月11日?1950年2月3日

第6代 今田恵1950年2月3日?1954年3月31日

第7代 H.W.アウターブリッジ1954年4月1日?1956年6月22日

第8代 加藤秀次郎1956年6月22日?1958年3月31日

第9代 小宮孝 1958年4月1日?1969年3月3日

(事務取扱) 武藤誠 1969年3月4日?1969年5月24日

(代行) 小寺武四郎1969年5月24日?1973年4月12日

第10代 小寺武四郎1973年4月12日?1973年9月30日

(事務取扱) 玉林憲義1973年10月1日?1974年2月14日

第11代 久山康1974年2月14日?1989年3月31日

第12代 宮田満雄 1989年4月1日?1998年3月

第13代 山内一郎1998年?2004年

第14代 畑道也2004年4月?2007年3月

第15代 ルース・M・グルーベル2007年4月?2016年3月

第16代 田淵結2016年4月?現在



学校法人関西学院

関西学院大学

関西学院大学の人物一覧


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:21 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef