公用語ウズベク語、タジク語
首都コーカンド
ハーン
1709 - 1721シャールフ・ビー
1875 - 1876ナースィルッディーン
変遷
建国1709
滅亡・ロシアへの併合1876
コーカンド・ハン国(ウズベク語 : Qo'qon xonligi)は、18世紀後半から19世紀前半にかけて、フェルガナ盆地を中心に中央アジアに栄えたテュルク系イスラム王朝。現ウズベキスタン領フェルガナ州西部のコーカンド(ホーカンド)を都としてカザフスタン、キルギス、タジキスタンの一部に及ぶ西トルキスタンの東南部に君臨する強国に成長、一時は清朝の支配する東トルキスタンにまで勢力を伸ばしたが、内紛と周辺諸国の圧力から急速に衰え、ロシア帝国に併合されて滅んだ。
ウズベクと称されるジョチ・ウルス系の遊牧民が中心となって建設されたいわゆる「ウズベク3ハン国」のひとつであるが、他の2ハン国と異なり建国時から一貫して君主はチンギス・ハーンの血を引かないミング部族の出身である[1]。 16世紀以来、フェルガナ地方には中央アジアに進出したウズベク系諸部族が流入し、ウズベク系のブハラ・ハン国がその支配者として君臨していた。しかし17世紀末頃にはブハラ・ハン国は本拠地であるマー・ワラー・アンナフルの一部しか支配しえないほどに弱体化し、フェルガナ地方ではイスラム神秘主義教団であるナクシュバンディー教団出身のホージャ(指導者)たちが都市の自治を担うようになっていた[2]。しかし18世紀前半にはフェルガナ地方に土着したウズベク諸部族のひとつ、ミング部族のビー(部族長)[3]が力を付け、ホージャ権力を打倒してフェルガナ地方に自立政権を樹立していった。彼らは1740年には都をコーカンドに定めているが、コーカンド・ハン国の建国はこの頃とみなされることが普通である。 ハン国の勢力は当初きわめて弱体であり、天山山脈北麓に割拠するオイラトのジュンガル帝国による侵攻をたびたび受けて大いに脅かされた。さらに18世紀半ばに清がジュンガルを討ってジュンガルの支配する東トルキスタンを併合すると、コーカンド領に隣接するタリム盆地東縁のカシュガル地方において強大な清の勢力と直接接触することになり、また清の支配を逃れてオイラトの貴族や、タリム盆地各地を支配してきたホージャたちがフェルガナに流入してきたために、清との潜在的な敵対関係に入らざるを得なくなった。 コーカンドの君主エルデニは清の脅威に対して南のドゥッラーニー朝(アフガニスタン)に援助を求めたが果たせなかったので、清に朝貢使節を送って誼を通じた。清との朝貢関係樹立はその代償に清朝支配下の新疆(東トルキスタン)との通商権をコーカンドに与え、その経済的繁栄をもたらすことになる。 またコーカンドにかかる直接の軍事的圧力が薄れたことは、コーカンド政権の支配拡大を可能とした。コーカンドの君主たちはかつてジュンガルでも軍の主力として活躍してきたキルギス人の傭兵や砲兵を受け入れて軍事力を増強し、18世紀末のナルブタ・ビーの頃までにフェルガナ地方の統一に成功した。 1800年、コーカンドの君主アーリムは中央アジア有数の大都市で、当時中央アジアに進出しつつあったロシアと東方とを繋ぐ中継基地として経済的に繁栄しつつあったタシュケントを征服、フェルガナを越えてカザフ草原にまで進出した。この成功によりアーリムは支配下の諸部族によってハンに推戴され、長らく中央ユーラシア世界においてハンの称号を名乗るのに必須の条件とみなされていたチンギス・ハーンの血を引かないままハンの座についた[4]。この政権が「ハン国」と称されるのは、これ以来君主がハンを称したことに由来する。 1810年に即位したアーリムの弟ウマル・ハンのとき、コーカンド・ハン国は最盛期を迎えた。軍事的にはカザフ居住地域の主要都市テュルキスタン市を征服して周辺のカザフ人やキルギス人に宗主権を認めさせ、その勢力圏は北はバルハシ湖、西はシル川流域に及んだ。 通商面では清朝への朝貢関係に加えてロシアとの間でも通商関係を結び、東西交易の通商路を拡大してハン国に大きな経済的利益をもたらした。特に清とは緊密な関係を結び、コーカンド商人は新疆における東西交易に独占的な地位を得た。コーカンドは中央アジア最大の交易国となり、金銀装飾品や武器、日用品を中央アジアの遊牧民たちに供給し、茶、絹、陶磁器などの中国製品をブハラなど西方に中継した。
コーカンド・ハン国の成立
ハン国の拡大と最盛期