コンロン・ナンカロウ
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コンロン・ナンカロウ
Conlon Nancarrow

基本情報
生誕1912年10月27日
アメリカ合衆国
アーカンソー州テクサーカナ
死没 (1997-08-10) 1997年8月10日(84歳没)
メキシコメキシコシティ
ジャンル現代音楽
職業作曲家
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サミュエル・コンロン・ナンカロウ(Samuel Conlon Nancarrow、1912年10月27日 - 1997年8月10日)は、アメリカ合衆国生まれのメキシコ現代音楽作曲家
略歴

アーカンソー州テクサーカナに生まれる。ジャズバンドでトランペット奏者を務めた後、シンシナティで作曲を学び、ボストンロジャー・セッションズウォルター・ピストンニコラス・スロニムスキーに師事。その後、ニューヨークへ渡ってヘンリー・カウエルに学んだ。ヘレン・リグビーと結婚したものの3年で離婚。アンネッテ・マルゴリスと2度目の結婚に至るが、これまた3年で離婚。

1936年より勃発したスペイン内戦ではスペイン共産党に入党し、人民戦線側で戦ったことから、アメリカへの帰国を拒否され、左派政権であったメキシコに亡命、メキシコシティに居を定める。1955年に政治亡命が認められ、市民権を取得[1]

3度目の結婚[2]は日本人学者のヨーコ・スギウラ・ヤマモトで、結婚時点ですでに長男のマコを妊娠中[3]だった。多くの栄誉が与えられたのは1990年代だったが、この頃すでに長年の飲酒や喫煙のために体調を崩し入退院を繰り返していた。

1991年に発作を起こして入院、1997年8月10日にメキシコシティで死去。パウル・ザッヒャー財団に自筆譜が寄贈された3か月後であった。長男のマコ[4]は学者となった。

ナンカロウは楽曲の製作日を正確に書き留めておく習慣がなかったため、多くの作品は何年頃に作曲されたと曖昧に表記されている。
作風

初期には『ソナチネ』などの器楽作品も見られるが、自動ピアノの可能性に目覚めてからはこの楽器を用いてリズムへの探求を行い、それは「自動ピアノの為の習作」という50曲を超える作品群へ結実した。これは、人間では演奏不可能な複雑なリズム構造を実現させるために自動ピアノを用いたものである。ヤングの『ウェル・チューンド・ピアノ』、ギュナー・ヨハンセンの『即興ソナタ』と並んで、改造ピアノの為に書かれた重要な作品群であり、現在もこの作品から影響を受ける作曲家は多い。

この作品群は当初から現在のような高い評価を受けていたわけではなく、1750 Arch RecordsからLP四枚[5][6][7][8]がリリースされた当時は「アメリカ実験音楽のひとつの潮流」程度の受け止め方でしかなかった。しかし1980年代にリゲティがたまたまパリのレコード屋でこのLPを入手[9]し、「ナンカロウはヴェーベルンアイヴズに匹敵するほどの大作曲家だ[10][11]」と高く評価し、リゲティの弟子マンフレート・シュターンケもこの作曲家を研究したことによってナンカロウは広く知られるようになり、WERGOからCDがリリースされた。

「メキシコには素材の細分化に向かった作曲家が3人いる。音律の細分化を図ったフリアン・カリリョとリズムの細分化を図ったコンロン・ナンカロウと変遷の細分化を図ったフリオ・エストラダだ」とManuel Antonio Dominguez Salasによって定義された[12]。前衛世代を凌ぐ音楽素材の微細化に向かったリズム語法の祖として、評価が確定している。
自動ピアノの為の習作

当初の作品は、バルトークの配分法やジャズやブルースの影響が露になったままで、単純にスピードを上げて捲くし立てる作品しかなかったが、次第に一本の線の極端な比率によるカノンの追求へ至る。


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