コンラート3世_(神聖ローマ皇帝)
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このページの名前に関して「コンラート3世 (ドイツ王)」もしくは「コンラート3世 (ローマ王)」への改名提案されています。
議論はこのページのノートを参照してください。(2024年5月)

コンラート3世
Konrad III.
ローマ王

在位1138年 - 1152年(ローマ王)
戴冠式1127年12月(対立ローマ王)
1128年6月29日(イタリア王)
1138年3月7日 (ローマ王)

出生1093年

死去1152年2月15日
神聖ローマ帝国バンベルク
配偶者ゲルトルート・フォン・コンブルク
 ゲルトルート・フォン・ズルツバッハ
子女一覧参照
家名ホーエンシュタウフェン家
王朝ホーエンシュタウフェン朝
父親シュヴァーベン大公フリードリヒ1世
母親アグネス・フォン・ヴァイプリンゲン
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コンラート3世(Konrad III., 1093年 - 1152年2月15日)は、ホーエンシュタウフェン朝初代ローマ王(ドイツ王、在位:1138年 - 1152年)[注釈 1][注釈 2]神聖ローマ帝国史上初めて皇帝としての正式な戴冠を果たせなかったローマ王である[注釈 3]シュヴァーベン大公フリードリヒ1世と皇帝ハインリヒ4世の長女アグネスの間の次男。シュヴァーベン大公フリードリヒ2世の弟、ザーリアー朝最後の皇帝ハインリヒ5世の甥。オーストリア辺境伯バイエルンハインリヒ2世レオポルト4世フライジングのオットーなどの異父兄に当たる。

1127年から1135年の間はズップリンブルク家の皇帝ロタール3世対立ローマ王で、イタリア王としても即位した(戴冠:1128年6月29日)。ロタール3世の権力を引き継いだヴェルフ家との戦いで帝位にこそ就けなかったが、巧みな外交戦略でシュタウフェン朝の基盤を固めた。皇帝派(ギベリン)の祖とも言える。
生涯
ローマ王選出前

1125年ザクセンロタールがローマ王(ドイツ王)ロタール3世に選出されるとこれを認めず、兄と共に反乱を起こし、1127年に対立王に選出された。翌1128年にはイタリア遠征を敢行してモンツァミラノ大司教によりイタリア王にも戴冠されたが1130年に帰国、5年後の1135年にロタール3世と和睦して王位を放棄した。翌1136年にロタール3世のイタリア遠征に同行している[1]

1137年にロタール3世がイタリア遠征の帰途で死去、ロタール3世には継嗣が無かったため、選帝侯達は次のローマ王を選出するため、コブレンツにて1138年3月7日に選挙を行った。ロタール3世は自分の後継者に婿で娘ゲルトルートの夫のヴェルフ家のバイエルン公兼ザクセン公ハインリヒ10世(傲岸公)を望んでいたが、投票ではホーエンシュタウフェン家のコンラート3世が最多票を得て新たな王として選出された。選帝侯達は強力な君主の出現を望んでいなかったため、当時は弱小勢力に過ぎなかったコンラート3世を選んだのである[2][3]
ヴェルフ家との抗争

即位直後は傲岸公が帝国権標を引き渡し王位請求権を放棄、恭順の態度を示したが、傲岸公の力を削ぐことを図ったコンラート3世は彼にザクセンとバイエルンどちらかの放棄を求めた。傲岸公が命令を拒否すると帝国追放刑に処し、領土を全て没収してザクセンをバレンシュテット伯アルブレヒト熊公、バイエルンを異父弟のオーストリア辺境伯レオポルト4世に与えた。だが傲岸公らヴェルフ家の抵抗は激しく、熊公はザクセンを支配出来ず退去したばかりかホルシュタイン伯アドルフ2世の離反も招き、混乱に乗じたヴェンド人の略奪を受ける有様だった[2][4]

1139年に傲岸公が死んだ後も息子のハインリヒ12世(獅子公)と母方の祖母でロタール3世の未亡人リヒェンツァがザクセンで抵抗を続け、1140年にはバイエルンでも傲岸公の弟のヴェルフ6世がレオポルト4世を破った。事態を重く見たコンラート3世は自ら遠征、ヴェルフ6世が籠城するヴァインスベルク城を包囲して落とした(この時籠城側の兵士たちが包囲側を罵倒した言葉がゲルフとギベリン(教皇派と皇帝派)の語源になる)[2][5]


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