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出典検索?: "コンラート1世" モンフェラート侯
コンラート1世
Conrad I
モンフェッラート侯
コンラート1世、フランソワ=エドゥアール・ピコ画、1843年
在位1191年 - 1192年
出生1146年
モンフェッラート
死去1192年4月28日
アッコン
配偶者エルサレム女王イザベル1世
子女マリーア
家名アレラーミチ家
父親モンフェッラート侯グリエルモ5世
母親ユディト・フォン・エスターライヒ
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コンラート1世[1](Conrad I, 1146年 - 1192年4月28日)は、モンフェッラート侯。エルサレム王即位直前に暗殺教団の凶刃に倒れた第3回十字軍側の英雄の一人。通称はコンラド[1]。彼の武勇はイスラム側からは、アル・マルキシュの名で恐れられていた。 イタリアでも名族で知られたモンフェッラート侯アレラーミチ家の出身。1179年、モンフェラート侯爵と当時の東ローマ帝国皇帝・マヌエル1世コムネノスとの同盟に基づき、コンラドは軍を率いて出征し、帝国の内乱を鎮圧した。コンラドは智勇兼備の名将であったことから恐れられたが、この頃に東ローマ帝国は次々と皇帝が変わり、1185年に即位した皇帝イサキオス2世アンゲロスがとりわけ暗愚なために帝国の内乱は増える一方だった。 1186年の冬、イサキオス2世アンゲロスは彼に自分の姉テオドアを妻とするよう要請し、このころ東ローマを去って十字軍に加わろうと考えていたコンラドもこれを受け入れた。1187年春に結婚式がコンスタンティノープルで行われ、このことで家格もその存在も一段と高まった。結婚後すぐさまアレクシオス・ブラナス将軍の反乱の鎮圧に向かい、将軍を殺して反乱を収束させた。 彼はかねがね東ローマ帝国内の反ラテン感情を息苦しく感じており、またブラナスの一族による復讐も心配となった。彼はコンスタンティノープルを去り、1187年の7月にエルサレム王国に移って港湾都市ティルス(ティール)の守りを任された。おりしも、アイユーブ朝のサラディンによる地中海沿岸諸都市の陥落と、ハッティンの戦いでのエルサレム王国軍の大敗によって、首都エルサレム陥落は時間の問題であり王国は滅亡に瀕していた。彼はティルスに迫るサラディンの軍に対し市民を鼓舞し陣形を整えイタリアの商船団の助けも借りて待ち構え、地形を利用してサラディンの大軍を少人数で撃退した。 エルサレム陥落後の同年11月、ティルスはエルサレムからの避難民で溢れ返っていたが、サラディンは再度陸と海からティルスを攻撃した。コンラドは城をよく守り、弱点ともいえる海岸線でもエジプト船による攻撃に対し焼き討ちで撃退して緒戦の数週間を守り抜いた。長期戦になると考えたサラディンはティルス攻城戦をあきらめ他都市の征服に向かったが、これはコンラドの能力とティルスの上陸拠点としての重要性を甘く見たサラディンの失敗だった。コンラドは、国王のギー・ド・リュジニャンが捕虜に取られ、領土もティルスの港だけとなったエルサレム王国において求心力を高めてゆく。 1189年、ギーはサラディンにより解放されるとティルスに赴きコンラドから市の鍵を奪おうとするが、コンラドはこれを拒否し、逆にハッティンの戦いにおける敗戦でギーは王たる資格を失ったと主張した。彼はギーとその妻で正式な王位継承者のシビーユの入城を拒んだが、ギーとはアッコンの港に対する数年にわたる包囲戦で協力する。
生涯
東ローマ帝国で活躍
ティルス防御
王位をめぐる争い
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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