コンラート・ヘンライン
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ドイツ国政治家コンラート・ヘンラインKonrad Henlein
1939年撮影
生年月日1898年5月6日
出生地 オーストリア=ハンガリー帝国
ボヘミア王国 マテルスドルフ
没年月日 (1945-05-10) 1945年5月10日(47歳没)
死没地 チェコスロバキア ピルゼン
所属政党 ズデーテン・ドイツ人党
国家社会主義ドイツ労働者党
称号 黄金党員名誉章
国家社会主義ドイツ労働者党
ズデーテンラント帝国大管区(ドイツ語版)指導者
在任期間1938年10月30日 - 1945年5月10日
ドイツ国国会議員
内閣ヒトラー内閣
在任期間1938年12月4日 - 1945年5月10日

ズデーテンラント国家弁務官
在任期間1938年10月1日 - 1945年5月10日
欧州ドイツ民族復建協会(ドイツ語版)会長
在任期間1936年11月21日 - 1939年1月31日
ズデーテンドイツ人義勇軍(ドイツ語版)司令官
在任期間1938年9月17日 - 1938年10月9日
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コンラート・エルンスト・エドゥアルト・ヘンライン(ドイツ語: Konrad Ernst Eduard Henlein、1898年5月6日 - 1945年5月10日) は、チェコスロヴァキア及びナチス・ドイツ政治家。ズデーテン・ドイツ人の指導者的存在となった人物。
略歴

当時オーストリア・ハンガリー帝国領(現在はチェコ共和国領)だったライヒェンブルクのマテルスドルフの出身(ヴラティスラヴィツェ・ナド・ニソウ(en:Vratislavice nad Nisou))。母にはチェコ人の血も流れていた。ヤブロネツ・ナド・ニソウの商業学校で学ぶ。

第一次世界大戦ではオーストリア・ハンガリー帝国軍に従軍したが、イタリア軍の捕虜となった。オーストリアの敗戦後、故郷はチェコスロヴァキアとしてオーストリアから独立した。チェコスロヴァキアへ帰国して銀行で事務員として働いた。ズデーテン・ドイツ人による政治活動に参加するようになる。

1933年にはズデーテン・ドイツ郷土戦線(略称SHF 、ドイツ語:Sudetendeutsche Heimatfront 、チェコ語:Sudeton?mecka vlastenecka fronta) を立ち上げた。同組織は1935年にズデーテン・ドイツ人党(略称SdP 、ドイツ語:Sudetendeutsche Partei 、チェコ語:Sudeton?mecka strana)となった。

当初ヘンラインは、チェコスロヴァキア残留派でアドルフ・ヒトラーやドイツを支持してはおらず、批判もしていた。しかし党首代理であるカール・ヘルマン・フランクにより修正を求められ、1937年頃にはドイツとの統一論者となり、党の意見もドイツとの統一とした。党は「一つの民族、一つの国家、一つの指導者」("Ein Volk, ein Reich, ein Fuhrer!")をスローガンとするようになった。

1938年9月のミュンヘン会談を受けてズデーテンラントはドイツに編入されることが決まり、同年11月5日にはヘンライン達のズデーテン・ドイツ人党もナチス党に吸収された。ヘンラインには親衛隊中将位と国会議員の職が与えられた。

1939年にチェコの残りの部分もドイツのベーメン・メーレン保護領と化し、3月から4月にかけてその民政長官に任じられた。しかし同地の権力は親衛隊及び警察高級指導者に任じられたカール・ヘルマン・フランクが握るところが大きかった。さらに5月にはナチ党のズデーテンラント大管区指導者となる。以降、第二次世界大戦でのドイツの敗戦までこの地位を保持した。

1945年5月にアメリカ軍に逮捕された。拘禁先のピルゼンで眼鏡の破片で静脈を切って自殺した。ピルゼン中央墓地の無名墓地に葬られた。
エピソード

国家保安本部長官であるラインハルト・ハイドリヒとは、しばしば対立しており、ハイドリヒからは暗殺対象として睨まれていた。しかし、ヘンラインとヒトラーとの良好な関係のため、計画は失敗した。後に、英軍エンスラポイド作戦によるハイドリヒ暗殺の知らせが伝わると、ヘンラインは地元のビアホールに向かい、酔いつぶれながら公然とこれを祝ったという[1]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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