コント55号
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コント55号
メンバー
萩本欽一
生年月日: (1941-05-07) 1941年5月7日(83歳)
坂上二郎
生年月日:1934年4月16日
没年月日: (2011-03-10) 2011年3月10日(76歳没)
結成年1966年10月1日
事務所浅井企画
活動時期1966年-2011年
出身浅草松竹演芸場
出会い浅草フランス座
現在の活動状況無し
芸種コント喜劇
ネタ作成者萩本欽一、岩城未知男(作家)
過去の代表番組コント55号の世界は笑う
コント55号の裏番組をぶっとばせ!
コント55号のなんでそうなるの?
ぴったし カン・カン など
同期西川きよし立川談志(萩本)
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コント55号(コントごじゅうごごう)は、萩本欽一東京都台東区出身)と坂上二郎鹿児島県鹿児島市出身)のお笑いコンビ浅井企画所属(55号と坂上単体のマネージメントは浅井企画が行っていたが、萩本単体のマネージメントは浅井企画から暖簾分けをした佐藤企画が実質行っている)。

当たりギャグは「なんで(ど?して)そうなるの!」(萩本)、「飛びます! 飛びます!」(坂上)。
来歴.mw-parser-output .ambox{border:1px solid #a2a9b1;border-left:10px solid #36c;background-color:#fbfbfb;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .ambox+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+link+.ambox{margin-top:-1px}html body.mediawiki .mw-parser-output .ambox.mbox-small-left{margin:4px 1em 4px 0;overflow:hidden;width:238px;border-collapse:collapse;font-size:88%;line-height:1.25em}.mw-parser-output .ambox-speedy{border-left:10px solid #b32424;background-color:#fee7e6}.mw-parser-output .ambox-delete{border-left:10px solid #b32424}.mw-parser-output .ambox-content{border-left:10px solid #f28500}.mw-parser-output .ambox-style{border-left:10px solid #fc3}.mw-parser-output .ambox-move{border-left:10px solid #9932cc}.mw-parser-output .ambox-protection{border-left:10px solid #a2a9b1}.mw-parser-output .ambox .mbox-text{border:none;padding:0.25em 0.5em;width:100%;font-size:90%}.mw-parser-output .ambox .mbox-image{border:none;padding:2px 0 2px 0.5em;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-imageright{border:none;padding:2px 0.5em 2px 0;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-empty-cell{border:none;padding:0;width:1px}.mw-parser-output .ambox .mbox-image-div{width:52px}html.client-js body.skin-minerva .mw-parser-output .mbox-text-span{margin-left:23px!important}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .ambox{margin:0 10%}}

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1966年、営業先の熱海温泉つるやホテルで「机」の一人コントを考案した萩本が、早速以前出演していた浅草松竹演芸場に売り込みをかけようと準備をしていたところ、たまたま浅草フランス座時代に幕間コントで競演した坂上から電話があり、この電話で坂上の助演が決定。10月に浅草松竹演芸場の上席前座として「机」を演じたところ、反応が今一つだったため、三日目に役を入れ替えたところ好評を博し、五日目には正式に香盤表に載る事となり、この時支配人から「コント55号」と名付けられた。

こうして2人の名は瞬く間に広がり、翌1967年2月14日には日劇の「西田佐知子ショー」にコメディーリリーフとして出演。以降、松竹演芸場の高座で新ネタを降ろし、練り上げて日劇の舞台にかけるといったパターンが続いた。テレビでは日本教育テレビ(NETテレビ 現・テレビ朝日)「大正テレビ寄席」に出演。余りに激しい動きをカメラが追いきれておらず、収録後楽屋から逃げ出そうとした2人をディレクターの山下武が止めて逆に詫びた逸話を持つが、この番組の出演で全国的に売れ出し、1968年前田武彦と組んだフジテレビの公開生放送「お昼のゴールデンショー」、続いてスタートした「コント55号の世界は笑う」で人気に拍車がかかった。この時「同じコントは(テレビでは)二度とやらない」をキャッチフレーズとし[注釈 1](ただし、坂上からの「一回だけではもったいない」という意見から、夜の番組でやったコントを昼にもう一度やることもあった[1])、萩本を「タレ目」、これに対して坂上を「チッコイ目」と呼んで売り出した。

やがて1969年の「コント55号!裏番組をブッ飛ばせ!!」の野球拳で良くも悪くも一世を風靡し、時代の寵児となった彼らだったが、子供に見せたくないハレンチ俗悪番組としてPTA地婦連、そして主婦の投書などで槍玉に挙げられ[注釈 1]、さらに1970年4月スタートのフジテレビコント55号のやるぞみてくれ!」は最高視聴率が11%と振るわず、同じくフジテレビ「コント・カチョ?ン」が7%、さらに日本テレビコント55号の日曜特別号」も7%と人気の凋落ぶりが顕著になっていった[2]

以降はコント55号としての活動よりも単独での活動に重点を置き、テレビ、ラジオ、映画と多方に渡り活躍。そんなある日、とあるタクシー運転手から「欽ちゃん、刑事さんをあまりいじめないでくれよ」と言われる。このとき、既に坂上は単独で俳優活動を行っており、TBS系の連続テレビドラマ「夜明けの刑事」で主人公の刑事役を演じていた。萩本は世間が坂上を萩本の相棒ではなく、一俳優として捉えていることを痛感。更に「(自分はただ仕事として相棒をいじっていただけなのに)客には本気でいじめてると思われてる。」とショックを受け、コントを演じ続けられなくなったとして、1975年以降はコンビとしての活動を大幅に自粛。当人達はコント55号をコントコンビではなく単体コメディアン同士のユニットと位置付けていた。萩本は「コント55号は始まりが無ければ終わりも無い」と語っていた。故にコンビとしての活動を控えても、解散宣言はしていなかった。

2009年、したまちコメディ映画祭in台東において、『第2回コメディ栄誉賞』を受賞。

2010年まで萩本は茨城ゴールデンゴールズの監督を務めており、その際の背番号「55」はコント55号が由来である。坂上もまた鹿児島ホワイトウェーブの総監督を務めていた時期があり、背番号もやはり「55」であった。

2010年12月7日BS日テレ徳光和夫のトクセンお宝映像!』にて、坂上が脳梗塞の影響で首から下が麻痺しており、動きのあるコントが演じられない状況であるため、萩本は「コント55号は終わった」と宣言した。これがコント55号の終了宣言と取れる最初の発言である。

2011年3月10日、坂上が脳梗塞により逝去したため、コンビ活動に事実上ピリオドを打たれることとなった。
コントについて

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コントの筋は、坂上扮する善良な普通の一市民が、萩本扮する異常な人物に振り回される内容が多く、所々オーバーな動きがコントに抑揚を付けていた。特に日劇出演を契機に、動きが大きくなり特徴の一つとなった。とりわけ、萩本のツッコミは執拗かつ想定外のものが多かった。萩本が演じる狂気の世界が日常とのギャップもあり、坂上が狼狽もしくは苦笑する事で十分笑いは取れていた。しかしこれに坂上が倍返しともいえるナンセンスなボケで対処し、笑いを増幅させた[注釈 2]ビートたけしは55号の笑いについて「萩本さんのセンスと坂上さんの芸に尽きる」と分析している。

萩本は、小林信彦から55号のコントは「不条理コント」との評価(小林は55号が活動初期の日劇出演の頃からそう感じていた)を受け、それをコントづくりのヒントにしていたのだろう、と回想している[1]

コント55号のコントは、その殆どを作家の岩城未知男が原作者として手掛けていたが、実際に55号の二人が脚本通り演じる事はなく、殆どが即興劇に近い形に改変されて演じられた。このため、当時一般にコント55号のお笑いを称して「自作自演」と言われた。岩城はこのことに憤慨したのか、やがてタイトルだけの台本や、一つのイラストだけ描かれた台本をよこすようになり、それに予め萩本が修正(というよりも殆ど創作)を行うようになったと言われている。

なお萩本曰く、もともとは当人たちで脚本を考えていたが、劇場の支配人から「原作者が別にいた方が格好もつくしギャラも別に出る」とアドバイスされたことから岩城に名前だけ出すよう持ち掛けたのが最初で、テレビ出演が増えるにつれスタッフから「作家の岩城さんと打ち合わせをしたいのですが」と言われることが増えたため、岩城自身が脚本を書くようになっていったと語っている。しかしながら、萩本によれば岩城は、夏場に打ち合わせのため喫茶店に入った際に「今日は熱いねえ」と言いながらズボンのポケットにお冷やをそのまま流し込んだり、表紙に人物の皴の一本一本まで精巧なイラストを描いておきながら「イラストに力を入れ過ぎたので、肝心のシナリオまで手が回らなかった」と中身が真っ白な台本を手渡したりするなど奇人であったといい、実際にコントの台本を作っていたのは萩本だったという[3]。ただし例外はあり、日本テレビの齋藤太朗には全幅の信頼を置いていたため、齋藤が手掛ける番組(『コント55号のなんでそうなるの?』など)では、コントの台本についても全て齋藤に任せて口出ししないようにしていた[4]。とはいえ、舞台上でアドリブで筋を変えることはあった。

萩本は、アドリブ主体のコントに一定の自己評価を持っていたことをほのめかしている。二人が日本テレビの「九ちゃん!」に出演した際、台本(井上ひさしが書いたもので、コントの台本としては非常に優れたものだったという[5])を無視してコントを演じたところプロデューサーの井原高忠に叱責されたため、台本を暗記してあらためて演じたところ井原が「初めにやったコントの方がずっとおもしろかった」との感想を漏らし、萩本自身も「僕たちのコントとしてはつまらなかったと思う」と分析した[1]

また萩本は、アドリブを主体にした他の理由として、最初はテレビ番組で稽古を一生懸命に行っていたが、それではドリフターズ(萩本は彼らが一生懸命稽古をしているのを目撃した)と似たものになりそうなので違う方向に進んだ、とも述べている[1]

坂上もまた、萩本がリハーサルの際コントの肝心な部分を坂上に言わないで本番に臨む、あるいはリハーサル時の萩本の面白いセリフを、坂上が本番でも言わせようと鎌をかけても別のことを言う、といったアドリブを行っていたことを述べている[6]

萩本・坂上共に、坂上は台本をすぐに覚えるが、萩本は坂上が台本を読むのをやめさせていた、と回想している(萩本に言わせると「台本どおりにやる坂上は面白くない」ため)[7][8]

坂上は「欽ちゃんが台本通りに演じないため、どう演じて良いか分からず即興で対処した。」と回顧していたが、萩本は「二郎さんがなかなか台本通りやってくれなかった。」と証言していた。
55号の意味について

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コント55号の「55号」の意味は、結成の2年前に読売ジャイアンツ王貞治選手(当時)が年間55本の最多本塁打を記録し、それにあやかって「お笑い界のホームラン王を目指してほしい」という願いを込めたのと当時流行していたゴーゴーダンスの「ゴーゴー」から、そして英語の掛け声「GO!GO!」から来ているとされている。いずれも本人達が自ら名付けたコンビ名ではないため、真実は明らかにされていない。

しかし、王の年間本塁打記録を意識しているのは確かなようで、2013年9月15日に東京ヤクルトスワローズウラディミール・バレンティンによって王の記録は更新されたが、萩本はバレンティンへの敬意を表しつつも(コント57号といった)コンビ名の改名を否定し、「王さんの記録にあやかって」55号と名乗り続ける意思を明らかにしている[9]
ライバルについて

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コント55号のライバルとしてよく名前が挙げられているのにザ・ドリフターズがあり、実際'60年代末?'70年代にかけて、子供たちの間で面白いコメディアンとしての人気を二分していた。この点、萩本は「ドリフは戦友であって宿敵ではない」とこれを否定している。他方、ドリフのリーダー・いかりや長介は生前「55号を常に念頭に置いて、意識してコント作りをしていた」と証言している。ただし「全員集合」が終了に追い込まれそうになった時、『もし終わるなら、最終回にゲストに呼んでほしい。一緒に思いっきりコントをやろう』と(萩本が)言ってくれた」とも語っており、やはり両者は「戦友」であったことを窺えるエピソードである。また、萩本が司会を務めたフジテレビのクイズ番組「TVプレイバック」では、ドリフのメンバーが毎週1名ずつレギュラー扱いの回答者(「ドリフターズゲスト」と称していた)として出演していた。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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