コントロール・データ・コーポレーション
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コントロール・データ・コーポレーション (CDC) は、アメリカ合衆国に存在したコンピュータ企業。商業用スーパーコンピュータのパイオニアでありシーモア・クレイのイニチアシブの下で1960年代を通じて最速のコンピュータを開発、当時のコンピュータメーカー大手9社の一角を占めた(他はIBMバロースDECNCRGEハネウェルRCAUNIVAC)。しかし1970年代にはクレイが同社を離れてクレイ・リサーチ (CRI) を創業すると社運が衰勢となり、1997年までに全ての事業が売却・吸収合併されている。
背景と起源:第二次世界大戦から1957年まで

第二次世界大戦の間、アメリカ海軍ワシントンD.C.技術者を集めて日本軍とドイツ軍双方の機械式暗号作成器で作成された暗号を解読するマシンの開発に当たらせた。大戦が終わって軍事費削減が行われる中でチームを解散させた場合の機密漏洩を危惧したことから、ミネソタ州セントポールのチェース・エアクラフト社にチームごと引き受けることを要請する。終戦で軍との契約をほとんど失っていたチェース社にとってもこの申し出は渡りに船で、チームの前歴を一切問わずに軍用グライダー工場を拠点として雇用する。これにより Engineering Research Associates (ERA) が設立され、1950年代初頭まで一見して海軍とは無関係の様々なプロジェクトに従事した。そのうちの一つに世界初の商用プログラム内蔵方式コンピュータだった36ビットの ERA 1103 が挙げられるが、これも海軍が暗号解読センターで使うことを目的としていた。

その後1950年代初頭にアメリカ議会で海軍が実質的にERAを「所有」していることが問題となり、海軍はERAから出資を引き揚げ海軍に協力していた格好のチェース社も1952年にレミントンランド社へERAを売却してしまう。レミントンランド社はERAのチームを維持し新製品の開発を続けていた。同社が最も興味を抱いたのはERAの磁気ドラムメモリシステムである。レミントンランドは間もなくスペリーと合併しスペリーランドとなり、ERA部門はスペリーのUNIVAC部門に吸収された。当初ERAから来た人々は技術的才能を買われて様々なプロジェクトに参加したが、UNIVACからERAに任された UNIVAC II(英語版) プロジェクトが炎上しスペリー社経営陣とチームとの間の関係が悪化する。

大企業の社風が合わないと感じたERAの技術者たちは辞職し、1957年にコントロール・データをミネアポリスに設立する。CDC設立メンバは満場一致でウィリアム・ノリス最高経営責任者に選出した。また、シーモア・クレイはチーフデザイナーに選ばれたが、1103ベースの海軍戦術情報システム (NTDS) に関する仕事が続いていたためプロジェクトが完了するまでCDCに合流できなかった。
初期の設計:クレイの大計画

CDCは主に磁気ドラムメモリシステムなどのサブシステムを売ることから事業を開始した。クレイが翌年合流すると即座にトランジスタベースの6ビット小型マシン "Little Character" を開発した。これは、クレイが考えている大型のトランジスタベースマシンのアイデアに向けたテストでもあった。

Little Characterは成功を収め、1959年、彼らは1103を48ビット化したトランジスタ版である CDC 1604(英語版) をリリースした。CDC 1604の最初の完成品は1960年にアメリカ海軍に納入された。なお 1604 という番号は、以前にクレイが開発した 1103 にCDCの最初の所在地の番地 (501 Park Avenue) を足したものだという説がある[1]CDC 160-ACDC 3000 シリーズの制御卓

12ビットにスケールダウンした CDC 160A(英語版) も1960年にリリースされる。これが世界初のミニコンピュータとされることが多い。160A は標準的なオフィス用机の形状であり、当時としては珍しいデザインだった。また、1604アーキテクチャの新バージョン CDC 3000(英語版) シリーズは1960年代中盤まで販売されることになる。

クレイは世界最高性能のマシンの設計にとりかかった。その目標は1604の50倍の性能である。そのためには大胆な設計変更が要求され、プロジェクトには時間がかかった(実に四年間かかっている)。経営陣はプロジェクトの動向を気にしはじめ、監視の目が厳しくなってきたため、クレイは1962年に自らの研究所設立を申し出て、認められなければ辞職すると言い出した。ノリスはこれを承諾し、クレイはチームを引き連れて行った。ノリスを含めたCDCの経営陣は、招待されない限りクレイの研究所を訪問できないという約束がかわされている[2]
周辺機器事業

1960年代を通して、ノリスは IBM に対抗するには何か重大なものを開発する必要があると感じるようになっていった。そのため、彼は周辺機器企業を買収してラインナップをそろえるという大胆な作戦を開始した。彼らはIBMより10%価格を安く設定し、10%性能の良いものを提供することを試みた。これは常に簡単というわけではなかった。

最初の周辺機器の1つに磁気テープ装置がある。周辺機器部門はこの開発にあたって社内の他部門にコストを分担させようとしたため、ちょっとした議論が発生した。もし原価相当の価格で他部門に機器を供給すれば、周辺機器部門は利益を得る方法がないことになる。代わりに周辺機器部門は、周辺機器が売れた際の利益の一部を還元してもらうことで決着し、以後その方式が定着した。

その後、カードリーダ、カードパンチ、テープドライブ(ストリーマ)、ドラム式プリンターなど、全て自社設計のものが開発されていった。当初、プリンター事業はデトロイト近郊のホーリー・キャブレータが実際の生産を行っていたが、後に合弁会社を設立。さらにホーリーは保有株をCDCに売却し、プリンター部門としてCDCに編入された。

ノリスは IBM が支配するパンチカードに代わる入力手段を模索していた。彼は光学文字認識 (OCR) システムのパイオニアである Rainbow Engineering 社を買収することにした。そのアイデアは、オペレータが決まったフォントのタイプライターで普通に打ち込んだものを OCR で読み込むことでパンチカードを不要にするというものであった。タイプされたページ1枚にはパンチカード1枚より遥かに大量の情報が含まれる(パンチカードは基本的にタイプの1行ぶんの情報しかない)。従って、紙の節約にもなる。しかし、これは思ったよりも困難な転換だった。CDC は初期の OCR システムで重要な役割を演じたが、今日に至るまで OCR が主要なデータ入力手段になったことはない。Rainbow の工場は1976年に操業停止し、CDC もその事業を止めた。

OCR プロジェクトが思ったように進展せず、パンチカードがすぐには無くならないことが明らかになると、CDC はこれにすぐさま対応する必要に迫られた。パンチカード機器は製造し続けていたが、それらは原価が高かった。そこで、より安価で高速な機器を持っている Bridge Engineering 社を買収することになった。その工場では磁気テープ装置も製造するようになった。後に、その工場とプリンターの工場はスピンオフされ、NCRとの合弁会社 Computer Peripherals Inc (CPI) となった。これは開発を共通化することでコストを削減する意味があった。さらに後には ICL もこれに加わっている。さらに1982年、そこからプリンター工場がセントロニクスに売却された。

ノリスは、コンピュータを購入できない中小企業向けに計算サービスを提供するオフィスをあちこちに展開した。この事業はあまり利益を生まなかった。1965年ごろ、何人かの管理職が利益の出ていないオフィスを閉鎖することをノリスに提案した。しかし、ノリスはこのアイデアを気に入っていたため、その提案を受け入れず、代わりに全体的な倹約を指示した。
CDC 6600:スーパーコンピュータの誕生CDC 6600

一方、シーモア・クレイと34人の技術者は新しい研究所で設計を続行した。1964年、その成果は CDC 6600 としてリリースされ、市場に存在するあらゆるマシンと比較して10倍以上の性能を誇った。6600のCPUは複数の非同期な機能ユニットで構成され、10個のI/Oプロセッサが接続されていて多くの一般的なタスク負荷を受け持っていた。そのためCPUは穿孔カードやディスク入出力といったありふれた仕事をコントローラに任せて、データ処理に専念することができる。最新のコンパイラでは0.5MFLOPSの性能、アセンブラでコードを書くと約1MFLOPSの性能を記録した。これは時代を考えると驚異的な数字である。性能を落としたバージョン CDC 6400 と 2プロセッサバージョン 6500 もリリースされた。

6600向けに MNF (Minnesota Fortran) というFORTRANコンパイラが、ミネソタ大学で開発されている[3]

6600が出荷されると、IBMはこの新しい会社に注目した。トーマス・J・ワトソン・ジュニアは「この門番を入れても34人しかいない小さな会社が数千人を抱える我が社を打ち負かしたのはどうしたわけだ?」と言ったと伝えられている。これを耳にしたクレイは「その質問の中に答えがあるじゃないか」と言ったという。1965年、IBMは 6600 よりも高速なマシン ACS-1(英語版) の開発プロジェクトを開始した。200人がこのプロジェクトのために集められた。このプロジェクトは面白いアーキテクチャと技術を生み出したが、それはIBMのSystem/360とは互換性がなかった。


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