コンデ美術館
[Wikipedia|▼Menu]

コンデ美術館
Musee Conde
庭園から望むシャンティイ城
.mw-parser-output .locmap .od{position:absolute}.mw-parser-output .locmap .id{position:absolute;line-height:0}.mw-parser-output .locmap .l0{font-size:0;position:absolute}.mw-parser-output .locmap .pv{line-height:110%;position:absolute;text-align:center}.mw-parser-output .locmap .pl{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:right}.mw-parser-output .locmap .pr{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:left}.mw-parser-output .locmap .pv>div{display:inline;padding:1px}.mw-parser-output .locmap .pl>div{display:inline;padding:1px;float:right}.mw-parser-output .locmap .pr>div{display:inline;padding:1px;float:left} フランス内の位置フランスの地図を表示コンデ美術館 (オー=ド=フランス地域圏)オー=ド=フランス地域圏の地図を表示コンデ美術館 (オワーズ県)オワーズ県の地図を表示
施設情報
コレクションファインアート
写本
装飾美術
収蔵作品数約20,000点[1]
来館者数221,206 (2010)[1]
275,775 (2009)[2]
延床面積2,559 m2[1]
開館1898年4月17日
所在地 フランス オワーズ県シャンティイ
位置.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯49度11分38.2秒 東経2度29分07秒 / 北緯49.193944度 東経2.48528度 / 49.193944; 2.48528座標: 北緯49度11分38.2秒 東経2度29分07秒 / 北緯49.193944度 東経2.48528度 / 49.193944; 2.48528
外部リンク ⇒www.musee-conde.fr
プロジェクト:GLAM
テンプレートを表示

コンデ美術館(コンデびじゅつかん、フランス語: Musee Conde)は、パリから40kmほど北のシャンティイオワーズ県)にあるフランスの美術館である。

1897年、国王ルイ・フィリップの息子であるオマール公アンリ・ドルレアンが死亡し、シャンティイ城とコレクションの全体がフランス学士院遺贈された。遺贈内容には、美術館として改装された居室とともに、歴代コンデ公およびオマール公アンリ・ドルレアン自身によって18世紀から19世紀にかけて改装された、古い大小の居室が含まれている。

所蔵品の中でも、オールドマスターによる絵画はおそらくフランス屈指の重要性を誇る。主にイタリア絵画とフランス絵画からなり、例えばフラ・アンジェリコが3点、ラファエロが3点、ニコラ・プッサン5点、アントワーヌ・ヴァトー4点に、ドミニク・アングルが5点ある。2500点の素描作品も所蔵しており、蔵書の中には1,500点の写本が含まれ、そのうち200点は装飾写本であり、有名な『ベリー公のいとも豪華なる時祷書』もある。他にも、版画ミニアチュール肖像画彫刻、初期の写真や装飾芸術、家具、そして陶磁器コレクションを収蔵している。

オマール公の遺志により、所蔵作品の貸し出しは禁止されており、また、作品の展示室にも一切の変更が禁止されているため、コンデ美術館のコレクションは、シャンティイでしか見ることが出来ない。結果的に、展示手法が1898年の美術館開館以来一切変わっていない。この美術館の入場者数は毎年およそ24万人である。年に4度開催される特別展では、普段は収蔵庫に収められている作品の一部を見ることが出来る。
歴史

アンリ・ドルレアンは、オマール公という爵位で呼ばれることが多いが、生涯を通じ、ヨーロッパで彼の祖先たちが所有していたにもかかわらず戦争や革命によって散逸してしまっていた芸術作品を収集した。作品の蒐集にとってひときわ役立ったのがイギリスへの亡命期間(1848年より1870年)であった。フランスに戻ると、彼はシャンティイの地所への城の再建に取りかかり、そこに再び集めた作品を収めようとした。「グラン・シャトー」は1885年に完成した。
オマール公によるコレクションの形成
コンデ公爵家の遺産

歴代コンデ公たちは、大画家の絵画と彼ら一族の肖像からなるコレクションを徐々に形成していった。シャンティイ城において絵画が展示されるようになったのは、1643年、大コンデ(コンデ公ルイ2世)の時代からである。城には、大コンデの肖像画のほかに、彼がさまざまな戦争であげた武勲をあらわす作品群も保管されており、現在は公爵殿の戦闘の間にある。フランス革命の際、コレクションが散逸し、いくつかの絵画作品は失われてしまった。王政復古期に、ブルボン=コンデ公ルイ6世アンリはコレクションを再興しようとし、ある程度の数の絵画を再収集した。主には、フランス画派、フランドル画派とオランダ画派の狩猟画と肖像画である。先のコンデ公の相続人であるオマール公アンリ・ドルレアンは、その全てを相続した[3]
コレクターの初期Orleans House, a Twickenham, residence du duc d'Aumale lors de son exil en Angleterre

オーマル公アンリ・ドルレアンは、新しい妻マリー=カロリーヌ・ド・ブルボン=シシルのために整えたシャンティイ城のプティ・シャトーの中の居室を飾るため、1844年より作品の購入を始めた。 初期の購入作品は、いくつかの18世紀の肖像画で、ラルジリエールとジョゼフ=ジフラン・デュプレシによるものを含む。だがオマール公が本当にコレクターとしての道を歩み始めたのは1848年、亡命への出立以降であった。1852年に、ルイ=ナポレオンはオマール公とオルレアン家に対し、 接収下にある財産の売却を求めた。これにより、オマール公は、かなりの資金を即座に使えるようになった。1850年から、彼は父親の死を機会に売りに出されたコレクションの取得を開始し、テオドール・ジェリコーによる《厩舎を出る馬》を買い上げた。 1852年、ロンドンの邸宅であるトゥイッケナムに居を定めると、彼は幾人かの助言者の助力を得つつ、コレクション形成に集中するようになった。 彼が選んだ作品群は二つの方向性を示している。つまり、彼自身の高名な祖先たちに関連するか、彼らが所蔵していた諸作品、それからもう一つの方向としては、彼自身を亡命に追い込んだフランスの威信ある歴史の記録である[3]
コレクションの大規模取得と限定的な購入の併用

1854年、オマール公は、義理の父親であるレオポルド・ディ・ボルボーネ=ナポリの蒐集品を取得するが、このコレクションには現在展示されているイタリア絵画の半数以上が含まれていた。それと同時に、彼は公的なオークションでニコラ・プッサンの《嬰児虐殺》を購入した。愛書家としても専門の知見を持っていたオマール公は、中世の彩飾写本も購入しており、その中には1856年にイタリアで手に入れた『ベリー公のいとも豪華なる時祷書』がある。1861年に、ルーヴル美術館の学芸員をしていたフレデリック・レゼ(フランス語版)のコレクションが売り立てが行われたことは、現在コンデ美術館で最高級の、デューラーラファエロプッサンらの素描を取得する機会となった。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:38 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef