「コンセプトアート」あるいは「コンセプチュアル・デザイン」とは異なります。
コンセプチュアル・アート (Conceptual art) は、1960年代から1970年代にかけて世界的に行われた前衛芸術運動。
日本には概念芸術や観念芸術と紹介され、高松次郎、松澤宥、柏原えつとむ
らが「日本概念派」といわれた[1][2]。アイデア・アート (Idea art) とも呼ばれた。その後メディアアートにも関心を持ったゲンジョ・グランが別途「Idea art」を定義した[3]。
この項では、当時もっとも先鋭的だった欧米の動きについて概観する。 コンセプチュアル・アートのルーツは、1910年代のフランスのマルセル・デュシャンの仕事に求められる[4]。デュシャンは従来の絵画や彫刻という形式に当てはまらないレディ・メイド(既製品)という芸術形式を提起した。1950年代、抽象表現主義に対する反発としてアメリカ合衆国でネオダダ運動がおこり、デュシャンが再評価された。ネオダダのアーティスト、ロバート・ラウシェンバーグはウィレム・デ・クーニングに提案してドローイングをもらい、それを丹念に消し去って『消去されたデ・クーニングのドローイング』(1953年)という作品を制作した(共同制作というべきだが、ラウシェンバーグは自分の作品であるとしている)。ポップアートのアンディ・ウォーホルも、『エンパイア』(1964年)などのコンセプチュアルな個人映画(実験映画)をつぎつぎに制作・上映し、話題になった。ヨーロッパにおける先駆者としては、イヴ・クラインとピエロ・マンゾーニの存在が大きい。フルクサスの活動はしばしばコンセプチュアル・アートとの親近性を見せており、オノ・ヨーコの活動はその最たるものである[5]。ゴダール監督の映画『小さな兵隊』(1961年)はコンセプチュアル・アートのタイポグラフィック的なスタイルに大きな影響を与えている[6]。 コンセプチュアル・アートは、ミニマル・アートのつぎの(シリアスな)アートとして、アメリカ合衆国のCIAの支援の対象となったジャンルである[7]。最終的にはジョセフ・コスースが音頭取りの位置を占めたが、そこに至るまでには紆余曲折があった。はじめローレンス・ウェイナー、ロバート・バリー
前史
概観
コンセプチュアル・アートにおいては、アイデアまたはコンセプトがもっとも重要である。作者がコンセプチュアルな芸術形式を用いたとき、それはプランニングや決定がすべて前もってなされているということであり、制作行為に意味はない。アイデアが芸術の作り手となる。(In conceptual art the idea or concept is the most important aspect of the work. When an artist uses a conceptual form of art, it means that all of the planning and decisions are made beforehand and the execution is a perfunctory affair. The idea becomes a machine that makes the art.)