コンスタンティン・パッツ
[Wikipedia|▼Menu]

コンスタンティン・パッツ
Konstantin Pats

コンスタンティン・パッツ(1934年)
エストニア共和国
臨時政府首相[1]
任期1918年2月24日1919年5月8日
後任者オットー・アウグスト・ストランドマン
(首相)
エストニア共和国
国老
任期1921年1月25日 - 1922年11月21日
1923年8月2日 - 1924年5月26日
1931年2月12日 - 1932年2月19日
1932年11月1日 - 1933年5月18日
1933年10月22日1934年1月24日
前任者アンツ・ピープ
エストニア共和国
国老兼首相
任期1934年1月24日1937年9月3日
エストニア共和国
摂政大統領
任期1937年9月3日1938年5月9日
後任者ケーレル・インパル(首相)
エストニア共和国
初代 大統領
任期1938年4月24日1940年6月21日
首相ケーレル・インパル
ユール・ウルオツ
ヨハネス・バレス[2]

出生 (1874-02-23) 1874年2月23日
ロシア帝国
リヴォニア県タフコランナ郡
死去 (1956-01-18) 1956年1月18日(81歳没)
ソビエト連邦
ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国カリーニン州ブラシェヴォ
政党農村国民連合(1917?1920)
農民集会(1920?1932)
小作人移民同盟(1932?1935)
愛国連盟(1935?1940)
配偶者ヘルマ・アイダ・エミリー・ピディー

コンスタンティン・パッツ(エストニア語: Konstantin Pats、エストニア語発音: [?kons?t?n???tin? ?pat?s?]、1874年2月21日(旧暦2月11日)[3] - 1956年1月18日)は、エストニア政治家革命家。エストニア共和国初代大統領。
概要

戦間期のエストニアで最も大きな影響力を発揮した政治家であった。自ら新聞『テアタヤ(エストニア語版)』を主宰し、新聞界と政界を舞台にヤーン・トニッソン(英語版)と40年間にわたって対立した。1905年のロシア第一革命に関与して死刑の宣告を受けるがスイスおよびフィンランドに亡命して執筆活動を続けた。その後、死刑の一部が恩赦されたためエストニアに戻ったが、1910年から1911年までの間収監された。

1917年にはエストニア自治政府の知事に就任したが、十月革命によって潜伏を余儀なくされる。1918年2月19日、パッツはエストニア救世委員会(英語版)を構成する三人のうちの一人となる。委員会は24日にエストニア独立宣言(英語版)を発布し、パッツはエストニア臨時政府(英語版)の首相(1918-1919)とされたがエストニアはドイツによって占領され、パッツは投獄される。臨時政府では内務大臣(1918)、陸軍大臣(1918-1919)も兼務してエストニア人による近代的軍隊の編成に注力し、エストニア独立戦争(英語版)の準備に専念していた。

1920年代から1930年代前半にかけて、パッツは当時の主要政党の中で最も右寄りの「農民集会(英語版)」を率いたが、1932年には「小作人移民同盟(英語版)」と合流した。パッツは国会(リーギコグ)の議長を務めたほか、5回(1921-1922, 1923-1924, 1931-1932, 1932-1933, 1933-1934)にわたって国老の地位にあった。1934年の任期中、右翼ポピュリズムの政治結社ヴァプス運動(英語版)(独立戦争退役者同盟)を無力化するため、陸軍と議会の支持を得てクーデターを成功させた。パッツのもと、エストニアは実質的な権威主義体制に移行した。

エストニアは「沈黙の時代」と呼ばれた権威主義体制の期間に数々の改革を成し遂げ、エストニアは経済成長を達成した。パッツは国老と首相を兼ね、自ら摂政大統領と名乗る期間を経て、1938年には新憲法を可決させエストニア共和国初代大統領の地位についた。1940年、ソビエト連邦はエストニアに進駐する。クレムリンの要求により、パッツは一ヶ月以上にわたって様々な大統領令に署名させられ、これらの大統領令はエストニアをソビエト化した。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:126 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef