コンスタンティン・パッツ
Konstantin Pats
コンスタンティン・パッツ(1934年)
エストニア共和国
臨時政府首相[1]
任期1918年2月24日 – 1919年5月8日
後任者オットー・アウグスト・ストランドマン
コンスタンティン・パッツ(エストニア語: Konstantin Pats、エストニア語発音: [?kons?t?n???tin? ?pat?s?]、1874年2月21日(旧暦2月11日)[3] - 1956年1月18日)は、エストニアの政治家、革命家。エストニア共和国初代大統領。 戦間期のエストニアで最も大きな影響力を発揮した政治家であった。自ら新聞『テアタヤ
概要
1917年にはエストニア自治政府の知事に就任したが、十月革命によって潜伏を余儀なくされる。1918年2月19日、パッツはエストニア救世委員会(英語版)を構成する三人のうちの一人となる。委員会は24日にエストニア独立宣言(英語版)を発布し、パッツはエストニア臨時政府(英語版)の首相(1918-1919)とされたがエストニアはドイツによって占領され、パッツは投獄される。臨時政府では内務大臣(1918)、陸軍大臣(1918-1919)も兼務してエストニア人による近代的軍隊の編成に注力し、エストニア独立戦争(英語版)の準備に専念していた。
1920年代から1930年代前半にかけて、パッツは当時の主要政党の中で最も右寄りの「農民集会(英語版)」を率いたが、1932年には「小作人移民同盟(英語版)」と合流した。パッツは国会(リーギコグ)の議長を務めたほか、5回(1921-1922, 1923-1924, 1931-1932, 1932-1933, 1933-1934)にわたって国老の地位にあった。1934年の任期中、右翼ポピュリズムの政治結社ヴァプス運動(英語版)(独立戦争退役者同盟)を無力化するため、陸軍と議会の支持を得てクーデターを成功させた。パッツのもと、エストニアは実質的な権威主義体制に移行した。
エストニアは「沈黙の時代」と呼ばれた権威主義体制の期間に数々の改革を成し遂げ、エストニアは経済成長を達成した。パッツは国老と首相を兼ね、自ら摂政大統領と名乗る期間を経て、1938年には新憲法を可決させエストニア共和国初代大統領の地位についた。1940年、ソビエト連邦はエストニアに進駐する。クレムリンの要求により、パッツは一ヶ月以上にわたって様々な大統領令に署名させられ、これらの大統領令はエストニアをソビエト化した。